The Tale of Bear
そらの珊瑚
森の中に『くまカフェ』がある。とんがり屋根の丸太小屋。夏にはハーブが咲き乱れた庭も、今ではすっかり刈り取られて、来年の春を待っている。
店主のシャルロットが開店準備を終えて、窓のカーテンを開ける。採らずにおいた柿の実をいつもならツグミがついばんでいるのに、今日は静かだった。「渡りが始まったのかしら? だいぶ寒くなったものね」シャルロットは暖炉に薪をくべながら冬がそこまで来ていることを感じていた。
カランカラン。鳴き木(なきぼく)で作ったドアベルが鳴る。今日最初の客はヤンじいさんだった。
「おはよう、シャルロット。いつものをお願いするよ」
「おはよう、ヤン。」
ヤンはミルクをたっぷり入れたジンジャーティがお好みだった。ザッザッ。ショウガをすりおろすと鼻へぬけるような香りが広がる。暖炉の前の席でそれを飲みながら、昼までの時間を新聞を読みながら過ごすのだ。
「何かいいニュースでもある?」
シャルロットがテーブルにポットとカップを置いた。
「いいニュースでもないけれど、もうそろそろ初雪らしいね」
シャルロットは少しさみしくなる。初雪が降れば私達くまは冬眠しなくてはならない。春が来るまでカフェはおやすみ。
「ところで、シモンは帰ってきた?」
「いいえ、まだよ」
シモンはシャルロットの夫のツキノワグマ。養蜂家だった。春から秋まで花を追いかけて蜂蜜を採るために旅をしている。
「じゃあ、エマが死んだこと、まだ知らないんだね」
くまカフェはシャルロットの母親エマと一緒にやっていたのだが、先月エマは亡くなった。もともと心臓に持病があったのだ。
「そうよ。行ったきり、どこにいるのか皆目見当もつかないの」
シャルロットはため息をつく。
「まあ、男ぐまなんてそんなものだがね」
ヤンは老眼鏡をはずして目頭を親指と人差し指で押した。
「深いかなしみはなくならない。けれどこの森が、癒してくれるよ」
それはシャルロットに言った言葉であるが、同時に自分に向けてのものでもあった。シャルロットが生まれるずっと前からヤンはこの店の客であった。エマは長年の大切な友人でもあった。
今でもエマがこの店のどこかにいるのではないかと錯覚してしまう。
『ショウガはね、食べると私達の体を温めてくれるのに、自分がとても寒がり屋なの。冷蔵庫に入れてはだめよ、風邪をひいてしまうから』母の言葉が蘇ってくる。
「ありがとう。なんとかやっているわ」
実際このカフェがあるおかげでシャルロットはどれだけ助かっているか。この店をちゃんとやっていくこと。今はそれが心のよりどころになっていた。
昼時になるとランチを目当てに主婦たちが集まってくる。
「今日のランチは何?」
「オレガノ入りオムレツと焼きたてくるみパンよ。お茶はリクエストにお応えするけれど」
「なんだか最近疲れがたまってて」
「それならハイビスカスティーがいいわ。ちょっと酸っぱいけれど」
「私は夜あんまり眠れなくて」
「それならローズヒップとカモミールをブレンドしましょう」
母親からシャルロットが譲り受けたもの、それは店だけではなかった。エマはいつも言っていた。
『ハーブは薬なのよ。自然の恵みなの』そうやって庭に様々なハーブを植えた。それを料理に使って食べ、クッションの中に入れてポプリにして香りを楽しみ、小花を混ぜて石鹸を作った。ハーブの知識はそうやって母から子へと受け継がれていくのだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
「いけない、子供が学校から帰ってくる時間だわ」
「おいくらかしら?」
「一人十どんぐりになります」
「また来るわね」
「シャルロット、元気そうで良かった」
主婦たちはシャルロットをかわるがわる抱きしめて帰っていった。
客がみな帰ってしまうと夕暮れがもうそこまでやってきていた。
「日が短くなったわ」
くまカフェには時計がない。暗くなったら、一日の営業はおしまい。誰の顔であるかわからない黄昏になったら、みな自分の家に帰るのだ。
カラン、カラン。
「すみません、もう今日は終わり……」
ふりむいたシャルロットの眼に待ち人の顔が映った。
「シモン!」
「残念。遅かったか。君のパンケーキが食べたかったんだけど」
「おかえりなさい……」
シャルロットはシモンの胸に飛び込んだ。枯れ草と蜂蜜の香りに包まれていく。
「蜂蜜なら、たくさんあるんだけど」
ウインクするシモン。
「仕方ないわね。特別よ」
今夜は話したいことが山ほどある。うまく話せるかしら。シモンの旅の話も聞きたいし。飲み物は何がいいかしら。そうだわ、アップルラムティーにしましょう。林檎のスライスをシナモンで煮たものに紅茶を注ぎ、ラムを滴らす。甘い香りが彼の旅の疲れをとるに違いない。
シャルロットは店先に出て、くまカフェのプレートを裏返して『closed』にする。今日の『closed』には、おしまいではなくて、はじまり。
森が夜の闇のなかに沈んでいく。空には一番星が光り始めていた。