ボタンホール
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プラットホームを歩いていたら
数歩先で人と人とが
すれ違いざまに接触した。
体と体の打ち合う音がして
ボタンがひとつ
床に落ち、私の足もとに転がった。
思わずそれを拾い上げ
視線を元の場所へと戻したが
どちらが失くしたものかは分からず
落としましたよ、
と言う声は喉の奥で綻んだまま
ふたつのうしろ姿は
うしろ姿の中に紛れてしまい
私の手の中に、ボタンは留まった。

電車が到着する。手の平を握る。
コートのポケットに手首を差し込んで
降り口に近い座席に座る。
態々、急ぎ足を立ち止まらせて
渡してあげる程のものじゃない。
そもそも、拾い上げるものでもない。
そう思って、目の前の座席から
女性が立ち上がり、電車を降りて行った。
その空席には誰も座らないまま
電車が次の駅に向かったので
小さな緊張のたがが外れたのを感じつつ
対面する車窓のガラスに映る
自身と少しの間、目を合わせてから
窓の外へと、焦点をやさしく押し込んだ。

郊外の風景には、郊外の風景らしい
適切な距離と、適切な暗さを守るように
家々が夜に針穴を開け
最小限の光で塞いでいる。
そんな、つましい星間を
電車は光の束となり
開封された夜の切り口から
終点、とアナウンスされる場所まで
長い手を差し伸べて行く。
私はそこから、みっつほど前の駅で降りる。
駅舎から少し歩き、入り組んだ路地へ入る。
その奥にひとつだけ
煌々と点る、家の明かりがあった。

路地と人家を区画する為に
設けられたブロック塀には
大半の葉を落としてしまった
花水木の影が貼り付き
細く神経質な枝振りは
眼の端に浮かぶ静脈を思い起こさせるようだ。
二階の窓辺に置かれた観葉植物の鉢植えが
磨りガラス越しに映っている。
その奥に現れた人影。
カーテンが閉められ、長方形の光に
型枠通りの闇が嵌め込まれる。
木の影が消え去り、私の影も消え去って
不意に訪れた暗闇に一瞬、
目を開けているのが不思議に感じた。

私は数分後
いくつかの角を曲がり終え
使い古した眼鏡を外し
眉間を指で軽く揉んだ後
弛めた手の平からゆっくりと剥がれ落ちた
黒いボタンに目を留め
知らない街のどこかで
冬のコートの一部に
やり切れないボタンホールと
無用の重なりだけがあることを、思う。


自由詩 ボタンホール Copyright sample 2012-12-04 13:53:10
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