時間と光
木屋 亞万

 時間というものは時と時の間に存在するもので時そのものではないけれど、時という存在自体がそもそも流れる性質を持つものであるから、時を感じようとするものには時は時間として感じられる他ない。どれだけ短く時を切り取っても、それは二点以上のつながりを持つ時間となる。けれど時が時間に先行して存在するわけではなく、時はまた時間の断面に過ぎない。時が存在するためには、切り取られる母体となる時間が必要だ。よく例えられるように時間は川のようなものであり、川は堰き止めたり切り取ったりしてしまえば川と呼べるものではなくなってしまう。
 時間の他に間という言葉が添えられた名詞に人間というものがあるが、人間も時と同じように人と人の二点以上のつながりなくしては人というものを語りえない。人間とは人と人の間にのみ生まれ落ちるものであり、人と人の流れの中に人間が存在する。人は人間の断面であり、人は連綿とつながる人間の流れの構成要素に過ぎない。
 流れるという現象は物質の移動だけでなく、物質と物質の間に隙間なく粒子が敷き詰められている必要がある。流動するためには流れ動きうるための集まり、つまり時が流れるためには時の集積が必要であり、それこそが時間なのである。
 二点以上のつながり、集積の移動という二つの特徴を持つものに空間がある。空間も時間、人間と同様のことが語りうるがそれに加えて、光という存在がある。光は波そのものであり、流れそのものである。視覚的情報そのものが広い意味で光によって構成されているのだが、一般的に光と呼ばれるものは、その流れの中で輝くという特異性を持つのとなっている。規則性を乱す不規則な振動、刺激が光なのである。人間の中で他と異なる特異な輝きをもつものを、天才あるいは輝く星にたとえてスターと呼ぶことがあるが、光は視覚的情報の中で天才的位置づけを持つ。光は象徴として美しいもの素晴らしいものを意味し、それに対して視覚的情報を遮断するものを闇と呼び負の意味を持つものとして象徴的に語られる。人間、時間、そして空間に光のような前向きな意味を持たせると、それに含まれないものが後ろ向きのものとして規定されざれるを得ない。
 時間、空間、人間をありのまま受け入れようとする在りようは、その規定からの解放を願う行動であり、時・空・人の三概念の流れを分類し、操作しようとする志向からの脱却である。川の流れを堰き止めて川を知覚しようとするありようから、川の流れに身を委ね川とともに流れる有り様へと変わっていきたいという願いだ。逆に、人間の中で人であろうと強く願うことは、流動への断絶であり、流れを堰きとめようとする行為である。流れは堰きとめようとするものに負荷をかけ、いずれ押し流してしまう。時間から時を切り取ることも、空間から光を抜き取ることも不可能である。人は光になりたいと願うけれど、人が人間という間の存在の断面である以上、人は光であり続けることはできない。人間は人として人と人の間を流れ、光のように時に特異性をもって輝くものもあるが、輝きという刺激は持続せずすぐに流れ去ってしまう。輝かぬものこそ普遍であり、人間とは往々にして連綿とつながり、規則性を持ち続けるものなのである。


散文(批評随筆小説等) 時間と光 Copyright 木屋 亞万 2012-11-03 20:03:59
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