川上凌

雨が降っていた。
秋晴れがさんざ続いたのをかき消すかのような、どしゃぶりだった。

わたしの住む地区には、いわゆる障がい者の人たちが通う学校が沢山ある。
聾学校・盲学校・養護学校…最近では、盲導犬もよく見かけるようになった。

いつものようにバスに揺られていると、通路を挟んで左隣の席に、養護学校の女の子が座っていた。多分中学生くらいで、足をぶらぶらと投げ出して、鼻をほじっている。
それを見た後ろの座席に座るおばさま達が、

「いやぁねえ…」
「ああいう子がいるから…」

などと小声で話しているのが耳に入ってきた。
言ってあげた方がいいのは分かったが、言えなかった。幸い、すぐに彼女の目的のバス停に着いたらしく、降りていった。

制服の上に纏った茶色のダウンはやけに大きく、細い棒のような足が寒そうだった。
その足元は、ゆらゆらと心許なくて心配になる。

わたしは「障害者」というくくりが嫌いだ。
彼らのどこに、“壁”があるのだというのか。
そりゃ親からしてみれば、普通の子より大変だろう。
だけど彼らの心はどうだろう。まったくもって自由なのではないだろうか。

わたしは彼らの親でも、恋人でもないし、
知り合いというわけでも、友人というわけでもない。
別に「注意してあげなきゃ!!」という強い強迫観念に駆られた
学級委員長タイプでもない。


ただ、そのおばちゃんの言葉が、やけに鋭利で冷たく聞こえた。


おばちゃんたちもまた、「障害者」というレッテルを彼女に貼り付けたのだ。
彼らと自分との間に一本の線を刻み付けたのだ。

障害者と健常者、ではなく人と人、としてフラットな立場で過ごせるようになったらどんなに良いだろう。

パラリンピックも、障がい者割引も、テレビで特集されるお涙頂戴も、
ぜんぶ、彼らが「障がい者であること」を前提に成り立っている。
彼らは障がい者で在る前に、ひとりの、“人”なのだ。


ひとりの人間として、同じスタートラインに立って、彼らと向き合ってみたら、きっとわたしよりも誰よりも、彼らの心は自由だろう。


料金を払って降車すると、外は相変わらずのどしゃぶりだった。




散文(批評随筆小説等)Copyright 川上凌 2012-11-02 17:44:24
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