信仰と文学に関するメモ 2
るか



信仰と文学、つねに、この順序でなくてはならない。始原にあり、すべての中心をなし、常に先にあり、また未来永劫ありつづける方こそが、神に他ならないという教えを私は受け入れようと、求めたから。人間というものが、あるいは世界というものが、自力ではけして完全、絶対たりえないという断念こそが、信仰の一契機をなしているものと私は思う。それが如実に明らかにされる瞬間がまた、人と世界とが完全でなくてはならないし、そこに意志の目的があることに想到する時であるというのも、また、逆説であろう。すべての人の世の思いは、本質的には、完全であろうという欲望であり願いであるが、これが人間自身の力によっては原理的に不可能であることを受け入れるとき、そのように造られて在ることを事実として認めるとき、どんな瑣末卑小な行為の一つもまた、人間の自力、己を恃む心によっては不可能であることを認めざるをえないのである。であるから当然、信仰することもまた、それが私という限界内にある限りにおいて、けして完全であることはできない。それはいつも誘惑にさらされ、葦のように弱く、自力では、本質的な意味でそれを深めること、強めることはできない。精々、居ずまいを正す努力によって、わが信仰をつよめて下さいと、願い求めることが許されるばかりだ。この弱い姿において、わが数多の、そして主との関係における根源的な罪の赦しの受け入れによって、神の前にある私を、愛されてある神が在ることを信じること。最も大いなるものを愛として、常に既に満ち溢れているその愛を受け入れること。教えによれば、それが信仰であるものと私は受けとめている。しかし、信仰が、一般的には、洗礼を契機とした、聖霊(pneuma)そのものであり御霊によるものである次元においては、それは永遠普遍なる完全性としての愛である。このように私は、主の名にあって、告白申し上げたいと思う。
むしろ、あらゆるものを飲み込む、無底の深淵(カオス)、無根拠という人間の真実が、どうして、対立すべき外部を持ち得るだろうか。闇とはいまここであり、宇宙そのものが地獄に象徴されている。
言葉も声も、世にあって伝えるべき唯一のメッセージの展開、変奏であればよい。そう願っている。やがてくる新天新地における、永遠の愛が、静謐のうちに、すべての意味を明らかにして下さるものと、根底から呪われたもののように、私は信じている。



散文(批評随筆小説等) 信仰と文学に関するメモ 2 Copyright るか 2012-10-05 21:56:58
notebook Home 戻る  過去 未来