文芸の社会的意義についての提言
るか



さて、芸術という呼称には、様々なイメージがまとわりついている。日本では、芸能と芸術とが対照的な概念として用いられている場合が多いが、一般的には、近代西欧から輸入されたアートの概念に適合するものを芸術と呼び慣わしているように思う。近代詩はいわずもがな、輸入された芸術の一形式に分類されてきた。で、近代性が解体される過程をポストモダンとするならば、このフラットへのベクトルは、芸術と芸能の区別も曖昧にし、再び同化させる過程でもあるわけである。

たとえば、ストリート志向。ポエトリーリーディング、オープンマイク。それらは、高尚であったり、宗教的であったり、倫理的であったりする芸術が、民衆的なもののなかへ回帰する傾向の一端を示している。いうまでもなく、その先鞭をつけたのは、ヴ ナロード のスローガンであり、プロレタリアートのなかへ向かった社会主義者の一連の活動であるが、現在はある意味で過去のそうした動きよりもっとソフトに、ナチュラルに、回帰というよりは、もともと同じものだから、インテリゲンツイアのような階層を形成しない、あるいは情報のフラット化によって、古典的な階層形成が不可能になった事情を反映して、といった形で、民衆性が広く支持されている。

このような状況下、文芸は果たして、意味を失っているかといえば、けして、そうではない。あるものの意義には、歴史過程において果たす状況的な意義と、歴史を貫通して持ち続ける本質的な意義とがあるだろう。果たして文学芸術の本質的な意義とは何だろうかがそこで問われ、そこから、現在において、総体として文学芸術はその意義を充分に果たしているか、果たしていないならそれを阻害しているものは何か、個々の作品について、ジャンル的本質からみて、成功しているか失敗しているか、そうした価値判断が可能になる。勿論、価値なんていらない、誰かに聴いて欲しいことがあるんだ、それも文芸の本質的機能の一端である以上、確保されるべき動機であることは、念のため付言させて頂きたい。

さて前述したような文芸の近代的また本質的なテーマ、倫理性であるとか、人間とは何か、心とは、意味とは何か、美とは何か、こうしたもろもろの真実を提示する形式という社会的機能は、果たして、既に社会からは用済みだといえるだろうか。勿論、そんなことはありえないのであって、それらが社会的抑圧にあるということは、社会がそれらにおいて貧困であることを示している。文芸の意義も可能性も、それが社会によって汲み尽くされない限り、けして失われることはない。詩人は、それを矜持とすべきであると考えるものである。


散文(批評随筆小説等) 文芸の社会的意義についての提言 Copyright るか 2012-09-29 20:53:25
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