オマージュにオマージュ
佐々宝砂

そういえば私は批評を読むのが好きだ。詩を読むのが苦痛になりかけているとしても、批評を読むのは苦痛ではない。それは私にとって快楽だ。みつべえさんの批評を読んでいて、思い出した。私は、いい詩を読みたいなあと思うのとおなじくらいに強く、いい批評を読みたいなあと思う。ほんとに単なる読者としてそう思う。私は自分が詩人や批評家であるといいきる自信を持たないが、読者だと断言する自信ならものすごくある。

みつべえさんの批評は、まず「風のオマージュ」という通しタイトルがすてきだ。とりあげている詩人たちも私の好みにあう。個人的好みなんか批評に無関係? いやそんなことないよ、私はやっぱり自分の好みに正直でありたい。自分の好きな詩人が批評にとりあげられていたら、それだけでうれしい。「あーこのひともこの詩好きなのねー」とミーハーに共感する、そういう批評の読み方があったっていいではないか。ちゅーか、まずそういうミーハーなとこから入るのが普通ではないか。「あれいいよねー」「うん、いいよねー」「あれいまいちだよね」「うん、ちょっとね」と確認しあうオタク的な言葉のキャッチボールの快楽。それは、映画・マンガ・ゲーム・小説などのマニアのあいだではごくありきたりの快楽である。だのに、なんで、詩の分野では眉間に皺寄せてこむずかしいことをいわねばならんのか。あたしゃこむずかしいことを読むのは好きだが、書けねんのだ、私にむずかしいこという才能はないのだ。詩のひひょーはなにやらアカデミックな言葉を使わねばらないような風潮があるので、私は悩ましい。

などと深く考えるといろいろつらいので考えるのはやめにして、「風のオマージュ」に話を戻す。まず「風のオマージュ1」でとりあげられている黒田三郎、私は彼の詩では詩集「小さなユリと」収録の「夕方の三十分」が好きで、一応好きな詩人だから入手容易な詩は一通り読んではいるのだけれど、「逃亡者」はなんかあまり記憶に残ってなかった。読んではいるはず、確か十五くらいのときに。もしかして、若すぎてだめだったのかも、今読み返せば印象が違うかも。今の私なら、ファンタスティックな世界にある少年の姿を、たぶん愛でることができる。みつべえさんが引用している部分を読んだら、「逃亡者」の全文を読みたくなった。

でもって次「風のオマージュ2」の村野四郎。私はこのひとの「体操詩集」がうんと好きだ。簡潔で、力強いから。でもみつべえさんはそんな当たり前のことはとりあえず書かない。学生時代のなかなか笑える経験から書き起こす、その筆致が私はすき。なるほど、「体操詩集」をクイズのように出されたら、知らなきゃ意味がわかんないよねえ。詩はクイズにもなるんだ、と私はかつて「さるれと」の中で書いたが、まさかほんとに詩でこういう設問をつくってしまうひとがいるとは思わなかった。世のなかにはいろんなひとがいるもんだ、なんてありきたり感想は不要だな、とにかくこの短い批評は、「風のオマージュ」の中でも秀逸。

「風のオマージュ3」は意外にも佐藤惣之助。って、意外に思ったのは私だけかしら。佐藤惣之助。現代では、あんまり人気のある詩人じゃないと思う。私はきらいじゃない。なんてーのか、佐藤惣之助の詩は、根本的に明るく希望に満ちてる、ユートピア指向なところがあるのね、それが過ぎて嘘くさくなるときもあるけど、でも、やっぱりみつべえさんのいう通りだわよ、「詩は愛と希望のためにある」! こういう詩を読むと明日も働こうという気になるぜ! というわけで、私はみつべえさんの意見に深く深くうなずくんである。

でもって4。北園克衛。このひとの詩は好き、大好き、もうほんとにミーハーにすき、ということはさておき、このひとの詩に関するみつべえさんの批評は、これじゃ単なる紹介だぞー。もすこしおもしろいのを期待したいぞー。って、もちろん紹介だって世の中には必要なんだけどさ。しかし、北園克衛の詩を紹介するにあたって、かの「円錐詩集」も持ち出さず、あの美しい「一枚のレコオド」の海という比喩も持ち出さず、あえて「花」というひっそりした叙情詩をもってくるあたり、たいへんにみつべえさんらしくてよろしい。

てなわけで、次回「風のオマージュ5」に期待しております。個人的に、山中散生と清岡卓行をきぼー。あと新川和江と寺山修司もー。いや、そんなもんヒトに希望しないでおまえが書けって?


散文(批評随筆小説等) オマージュにオマージュ Copyright 佐々宝砂 2003-10-25 04:00:22
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