はらせつこ
salco

 子ども時代ははらせつこでよく遊んだ。その名の女優の屋敷跡で、バラ線をくぐって出入りする。
他にもゴマンとあった空き地と交互に遊んだが、何しろ1番近く、広かった。5百坪はあったろうか。
 私が生まれる前に転出した由で、コンクリートの基礎部分が残っていた。地面と雑草が露出した間
取りは子供心にも立派な造りを窺わせたが、1周すれば汗をかくほどの庭に比べればこぢんまりした
ものだった。
 広い南側を見渡す矩形は応接間だったかも知れない。北側の一角には水回りの瓦礫が一段高く残っ
ていて、水色と濃紺のモザイクタイルの浴槽跡や、台所と思しき窯跡がおままごとにうってつけだっ
た。

 実際、界隈の子ども達が往年の大女優など知るはずもなく、「はらせつこ」はこの空地を意味して
いた。長じてテレビや雑誌からこの女優の過去存在を認識するようになっても、双方を観念的に結び
つけることはできず、その名はこの遊び場と結びついたノスタルジーをしか喚起しなかった。だから
一致する固有名詞が意味として同化せず頭の中で対立してしまい、変な違和感を覚えたものだ。
 年齢的に大人となり原節子という漢字を容貌と概略、そして日本映画史に占める位置と共に考え併
せることができるようになっても、識字以前から昵懇だった「はらせつこ」はやはり人名ではない。

 草深い農村でしかなかった低地に住まいを持ったのは、世田谷通りへ出てすぐの東宝や調布の日活
など、映画会社のスタジオが近かったからだろう。ある学生寮史によれば、映画監督の姉夫婦と同居
しており、昭和23、4年頃に移って来たらしい。黒澤明も一時期この界隈に住んでいたと最近、娘
さんの書いた本で知った(「近くに泉があった」とあるので近所ではないと思うが)。
 それでも世界のクロサワや他の人気俳優のように水はけの良い高台に移りもせず、大きな台風の度
に川が溢れるような所に住み続けたのは、後の隠遁生活を考え併せると、既にいくらか厭世的だった
のかも知れない。

 この邸跡と道路を隔て斜向かいにある家の、長女の名付け親が原節子だった。
 そこのおじさんは大手新聞社勤務で、生まれながらに重役の運命を負っている風貌が、アドルムに
奔るなど滅相もない坂口安吾といった感じだった。又おばさんたるや、今思えばハーフかクォーター
だったのだろう、すらりとした元ミス・ナントカ風の美人で、彫りの深い顔立ちといい落ち着き払っ
た挙措といい、ジャクリーヌ・ケネディーさながらだった。無論、当時は安吾やジャッキーを知る由
もなく、自分の親や他のおじさん・おばさん達とは毛並みが違うと感じていた。そんな縁故の命名だ
ったかも知れない。
 当の長女と同年で大の仲良しな姉が仕入れて来た「原節子ゴッドマザー伝説」は、私も後年おばさ
ん本人から聞いた。今では世捨て人みたいに語られるが、気難しい人では全くなく、ご近所づきあい
をする人でもなかった代り、この懇請を快諾し赤ん坊を抱っこしてもくれた由である。

 つまらぬ新生児の命名を有名人に迫る輩は今日もいるのだろうが、あの時代の「映画スタア」は今
とは存在の意味も意義も違っただろう。その原節子に「あやかる」以上の接触をしたのは僥倖と言え
る。あまつさえ彼女はその後生ける伝説と化したのだ。
 デビュー当時の少女期から日本人離れした美貌を騒がれ、戦後も名匠の映画で主演を張り、「永遠
の処女」と奉られた女優がいかに輝かしいものであったかは、小奇麗なタレントで溢れる今では比較
材料がない。
 ともあれ凡そ女優と名の付くニョショーの中でイメージに垢が付かないのは、現在に至るもこの人
と吉永小百合ぐらいのものだろう。唯ひとつ違うのは、「永遠の処女」が(恐らく)老醜をさらすの
を嫌って北鎌倉の親族宅に隠遁した一方、「永遠の美少女」は出演を続けながら老化の発現が天恵的
に遅いというだけで。

 ここに住んだのは14、5年ほどだそうだが、四囲の木々は電柱より高く、秋にはクヌギやシイの
実を山ほど拾わせてくれた。埋め井戸の傍らにある池跡には雨水が溜まっていて、蛙の卵を小枝に引
っかけてぞろぞろ引き出したり、肢の生えたおたまじゃくしを観察したものだった。東側の車道に面
したガレージ跡では割と凝ったお医者さんごっこをした。
 テントとシュラフを買ってもらった6年生の兄は自宅の庭に飽き足らず、同級や近所の男の子達を
誘って一泊した。寒くて眠れなかった、と翌朝早々に帰って来たのを憶えている。他人の土地に杭を
打ち、固形燃料で飯ごう炊さんまでする、それを見咎めようという考えの大人が一人もいない、大ら
かな時代であった。

 私はと言えば2年生の時、風呂場跡の近くで遊んでいて左薬指をガラス片でざっくり切り、顔面蒼
白の体で家に帰った。泣くともっと怖くなるのでこらえ、幼稚園時のわんわん泣き転落おでこに続い
て自転車の荷台に乗せられ、かかりつけの医院で縫われた痕が今でも残っている。
 早生まれのせいか持って生まれた知能のせいか、小学校に上がっても柱時計が読めず、靴ひもを蝶
結びできず、2年になっても右・左という概念が全く理解できなかった私には恰好の目印となり、今
ではすっかり薄れたこれがはらせつこ唯一のよすがとなった。


散文(批評随筆小説等) はらせつこ Copyright salco 2012-09-28 00:19:47
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