駄作について
三田九郎

 詩を書いていると「上手く書きたい」「より多くの人に良いと思われるものを書きたい」という欲が出てくる。その欲が、最初のインスピレーションに従ってただ書き出しただけの言葉を、色々と加工させる。加工していくうちに「あ、これいいんじゃないかな」というアイデアが浮かんできて修正できると、それなりに気分が良いものだ。
 
 けれど、あれこれ加工してもうまくいかないこともある。ううむ、どう見ても駄作としか言いようがないな・・・と思うこともある。このとき、その詩をどうするか、が問題だ。葬り去ってしまうのか、それとも、駄作であっても良いから他人の目に晒してしまうのか。

 人生、できることなら良い面だけを見せて生きていきたい。ひとりでいるときはぐだぐだであっても、人前に出るときはそれなりに気を配り、体裁を整える。人生と同じで、詩も、駄作(悪い面)はできるだけ見せたくない、という気持ちがむくむくと湧いてくる。

 けれど、人生だって悪い面もたくさんさらけ出しながら生きていくのがむしろ自然だ。取り繕い続けて生きるなど、できるものではない。詩もきっと同じだ。駄作でも良いから発表し続けたい、と思う。駄作であってもせっかくこの世に生み出した言葉なのだから「残したい」という気持ちもあるし、反省、考察するための材料として、詩を書く力を育んでくれるともと思う。

 自分なりに上手くできたと思えるものでも誰からも褒めてもらえないこともあるし、下手だ、失敗したと思うものを褒められることもある。それもまた、詩を書く面白さのひとつであり、人生にも同じことが言えるのではないかと思う。


散文(批評随筆小説等) 駄作について Copyright 三田九郎 2012-09-26 06:07:06
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