こおろぎ
そらの珊瑚
浴室にこおろぎがいた
おまえ、どこから入ってきた?
こんなところにいたら
いずれ泡にまみれて死んでしまうよ
ここは地獄のお湯屋だよ
どこの世界にも
ちゃんと生きているつもりでも
なぜだか間違ってしまう奴がいるものだ
ほら おいで
そんな私の思惑など
知らぬこおろぎは
手を伸ばせば唐突に飛び上がる
どこに着地するかなんて
一ミリも考えていないような無鉄砲さで
逃げ惑うコオロギをようやく捕まえる
小さな手足をもぞもぞと動かし
ひねり潰されては大変と言わんばかりに
必死に抵抗している
わたしは神になったつもりでいたが
ほんの出来心で悪魔にもなれることを
まるで本能で知っているかのように
窓を開けて
にぎった手のひらをそっと開く
ためらいとも取れなくはない
ほんの少しの躊躇のあと
やはりこおろぎは無鉄砲に跳躍していった
どこに着地するのか
こおろぎには確かめようもないのだろう
はなから確かめようなどという気はなく
ただ生きているから
はねてみる
しょせん重力からは
逃げられないにしても
今直面している災厄からは逃げられた
もう戻ってくるなよ
ここはおまえが唄うには狭すぎる
こおろぎが去っていった暗闇からは
もはや秋の匂いがしていた