届くとか届かないとかのこと
はるな


手がふれる、という覚悟と、手がふれた、という諦念の間には、ほんのわずかの隙間があって、わたしはだいたいそこいらへんに住んでいるのじゃないかと思う。わかっていながら、実在に達しない、その、なんとも。
相手はなにを思っているんだろうか、思っていないだろうか。だってこちらが触れんとするときと、実際ふれたときには、そんなわずかの隙間には構っていないし。

誰も誰にも届かないです。
という思いがしじゅうあって、だから絵をかいたり文章を書いたりしている。もしかしたら届くかもしれない、とゆう気持と、ほうらやっぱり届かない、とゆう気持を最初から準備しているので、ますますどこにも着地しない。わたしの作るものは、だからどこにも着地しない。それはやっぱり、わたしがいるところの隙間から、隙間へとただ移動するだけで、あるようで、なんにもない。ださい。
愚かなのはいつも、まちがった同化をしてしまうことです。似ていると思ったり解るよと思ったりしていてもやはりこの皮一枚隔てたときの齟齬ときたら。しかもそれを知ることはない。
だからあまりにも届かないひとが安心、ぜんぜん違ったものに絶望しながら惹かれるのは当然のことで、向こうからも、こちらからも、届かないという了承のうえで対象を見るのは苦しくないから。ぜんぜん違っているのに触れたいとゆうのは、触れたいからしかないのだなと思うことができるし。それは安心。
誰も誰にも届かないです。
そのことにいちいちずっと悲しまなければならないとも思う。いつも届くことのできるのは死だけだし、終りもはじめもない。
でも実際、はっとそういうふうに思い始めてからしばらく経つけども、もうわたしにはなにが、届くとゆうのか、それがもうわからなくなりはじめているし、だってわずかの隙間に心地よく寝床を知ってしまったからには。

ぜんぜん違ったひとというのは、あまりにも届かないひとというのは、(つまりわたしからみて)、体と精神がぴったりあますことなくつながっているひとと思う。そんなふうな性質をもったひとは確かにいて(少ないけど)、そういうひとの体にふれれば、ああ触れたなと疑いなく思うことができます。そういうひとはこちらがふれた瞬間に触れられた表情をする。それは胸がめちゃめちゃに破裂してしまうくらい感動的なことです。届くとか届かないとかにかかわらず私がここにいてあなたがここにいると理解できるということは。
そういう感動を味わって、ぽんと一人になってみれば、だいたい一日とか二日とか、体も精神もどちらも一緒にどこかにいってしまったような心地になって、もしかするとこれがほんとうの動物というものではないかと思ったり思わなかったり。


散文(批評随筆小説等) 届くとか届かないとかのこと Copyright はるな 2012-09-11 18:58:10
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