叙事詩??物語・詩??
……とある蛙

「叙事詩の精神ーパヴェーゼとダンテ」 
 河島英昭著 岩波書店 1990年8月27日刊

著者はイタリア文学者です。ボッカチオなどの翻訳研究でも知られているらしいのですが、私は余りイタリア文学に興味がないので知りませんでした。ところで、本書は表題にもあるとおりイタリア文学を通して詩についてかなり論じられています。もちろん、イタリアの詩人についての研究あるいは評論ですが、チェザーレ・パヴェーゼというファシスト党に対するレジスタンスの詩人を通じて同時代1930年前後の時代の詩について論じています。ダンテについても論じている部分がありますが、それは現代詩の実作に関して直接指針になるとも思われないので本稿では省きます。

チェザーレ・パヴェーゼ(以下「パヴェーゼ」という)反ファシズム闘争を行い」獄中で詩篇を幾つも作り、解放後言葉を失い自殺した詩人です。青年期は北部のトリノで過ごしました。詳しい略歴はWikipediaでも読んで下さい。

本書の中でパヴェーゼの詩論については「詩人という仕事?」「詩人という仕事?」で論じられています。

「詩人という仕事?」

その中で著者の問題提起は極めて素朴なもので?人はなぜ詩を書くのか?また(パヴェーゼのように)死ぬまで詩を書き続けた詩人は何を果たそうとしたのか?の二点です。

詩を創るという行為は人間存在の根源に迫ろうとするものだとしても、その手段が言葉である以上作り上げた詩の世界から言葉の背後に隠れているものとの距離を感じる必然がある。詩を作るものは言葉の本質に立ち向かわざるを得ないとします。言葉は意味を当然内包するものであるから表し得たものと表せずに失われたものの二律背反性を常に持つ。そのようなものを克服するために詩人は技法を磨くとする。

著者はある意味(どんな意味か?笑)古典的すぎるかも知れない。入澤康夫氏などは詩は表現行為ではないと言い切っています。これも疑問ですが。
しかし、パヴェーゼはこの二律背反性を丸ごと抱え込んだままの方法はないか模索します。実際イタリアの口語詩運動の影響を受けていたようですが、友人との芸術論の中で「芸術は美だけではなく美と醜、善と悪、正義と虚偽全て感ずるものだ。つまり人生だ」としています。この視点から彼の詩は美だけではなく人生を、自己だけではなく社会全体を詩の中に組み込むようにならざるをなくなります。

※一編の詩を実作するとき、詩人は詩学を意識せざるを得ない。
言い換えれば詩学とは詩についての反省であり詩についての創造的考察であり、しかも詩法を論ずるものである。

パヴェーゼはファシズムの嵐の中で社会を捉えた詩を書こうとしました。その必然的な結果として物語・詩を模索するようになります。これまでの詩は余りにも主観的であった。詩はほとんど詩人の感性であった。それではパヴェーゼの考える社会全体を組み込んだ詩など到底書けません。叙情性を叙事詩に組み込む試み、それがパヴェーゼの考える物語・詩となります。

「詩人という仕事?」

ポッジョ・レアーレ

短い窓が安らかな空のなかで
心を落ち着かせる。誰かが満ち足りてそこで死んだ。
外には梢と雲がある、大地と
窓もまた。この上まで届いてくるあの呟き、
それは全生涯の物音だ。

           虚ろな窓は
見せない、梢の下に、連なる丘の姿を、
そして白じろと、遠くにうねる一筋の川を。
流れる水は溜息のように澄んでいる、
だが、誰も見向きもしない。
          
           一片の雲が現われ
固く、白く、ためらっている、四角い空のなかで。
怯えた家並と群がる丘に気づく、風のなかで
透き徹ってゆく一切に。散りじりに風のなかへ
滑ってゆく小鳥たちが見える。あの川に沿って
進む安らかな一体隊は、誰一人として
小さな雲に気づかない。

         いまは虚ろになった青空が
短い窓のなかにある。そこへ落ちてくる
小鳥の叫びが、ざわめきを打ち砕く。あの雲は
梢に触れたのか、それとも流れのなかへ降りたのか。
草原に横たわった男はそれを感じているだろう、
草の溜息のなかで。だが眼差しは動かずに、
草だけが動いている。死んだに違いない。

         河島英昭訳

 パヴェーゼの「ボッジョ・レアーレ」※1という詩は刑務所の中で書いたもの「灼けつく土地」はイタリア南部の流刑地で書いたもの。
いずれも流麗な詩ではありません。しかも人称が定まらない詩です。詩の主体が遠方から対象を見ているようで、その中に抜き差しならない事件が惹起されているようでもあります。

短い窓が安らかな空のなかで
心を落ち着かせる。誰かが満ち足りてそこで死んだ。

 「ボッジョ・レアーレ」はパヴェーゼが流刑地に行く直前収容された刑務所です。
 一連目から「短い窓」という言葉が出てきます。短い窓を見ているのは獄舎を遠方から眺めている人のようであり、あるいは獄舎内部の人のようです。小さい窓でも狭い窓でもない表現が閉塞感を感じさせる言葉となっています。そして誰かが満ち足りて死んでいるのは「そこで」としか場所が特定されておらず、詩の主体が獄舎に繋がれたパヴェーゼでないとおそらく解釈できます。

 この詩は四連からなりますが、その特徴は?四連いずれも現在を軸として書かれていること?四連どこにも私がいないということです(つまり感情の吐露ではないということ)詩は従来の形式には当て嵌まりません。明らかに詩人の感性に基づく叙情詩ではありません。

灼けつく土地

トリーノにいたことのある痩せた若者が話しだす。
大きな海が広がって、岩陰に隠れ、
青ざめた色を空に投げ返している。耳を傾けた一人
一人の目が輝く。

        トリーノに日暮れに着けば
すぐ目につくだろう、街をゆく
意地悪そうな女たちが。着飾って、独りぼっちで歩いている。
あそこでは女たちはみな着る服のために働くのだが、
いちいち光に合わせている。朝方の
色もあれば、並木道へ出てゆくための、そして
夜の楽しみの色もある。女たちは、待ちながら
独りぼっちの自分を感じて、人生の底まで感じてしまう。
それは自由な女たちだ。彼女らには何も拒まれない。

打ち返しまた打ち返して岸辺に衰えて行く海の音がする。
ここの若者たちの日が深くきらめくのを、
僕は見る。すぐそばに無花果の垣根が
赤みがかった岩の上で絶望に悶えている。

独りぼっちでタバコを吸う自由な種類の女たちもいるのだ。
日暮れに知り合って朝方には別れてしまう。
カッフェで友だちみたいに。彼女らはいつでも若い。
男のなかにすばやい目つきを願い、戯れといつでも
それきりで終わることを願う。丘にゆきさえすればよいのだ、
そして降らしさえすれば。女の子みたいにしゃがみこんでも、
情事を楽しむことはできる。男よりも手馴れて
思うままに活き活きと、裸のときでさえ、おしゃべりをする
いつもと変わらぬあの快活さで。

             それを僕は聞いている。
痩せた若者の、落窪んだ、ひたむきな目を、僕は
見つめていた。それもまたかつてはあの緑を見たことがあるのだ。
闇夜のなかで僕はタバコを吸うだろう、海さえも無視して

                河島英昭訳

 「灼けつく土地」※2に関しては連の重要性がさらに読み取れます。つまり、第一連と第三連は流刑地の南部の現実を第二連と第四連は故郷の北部との女性達の対比により閉塞感を描いています。そして第五連載修練は流刑によって縛られた自分「僕」もひどい南の現実の中にある南の一員となります。南と北とに分断されたイタリアの状況を記述しているだけでそこには個人的感懐としての「僕」は存在しません。これも明らかに詩人の感性に基づく叙情詩あるいは私詩でないことはハッキリ分かります。

※全く表現方法考え方は違うのですが、シュールレアリスムスという芸術運動と手法が逆立ちして同じようなものかと少し感じました。後者は誤解されている部分もありますが超現実的なイメージの創出にできるだけ主観を排除している方法で感情の吐露などとは180度違います。正に物語・詩はシュールレアリスムスと似た表情を持っているようです。ただ、物語・詩には「デベイズン」(置き換えなど)「自動書記」でないところが明確にシュールリアリスムスと異なるところですが。

しかし、物語・詩の発展した先は神話世界にならざるを得ず、パヴェーゼの初期作品からその萌芽があるようですが、物語氏として意識して書いた「南の海」など結局オディッセイア的な放浪譚を書き上げたわけです。その行き着く先は短編小説の群れ、ファシズムから解放され彼は文字通り言葉を失って最後は自殺しました。

最初の問題点提起?人はなぜ詩を書くのか?に関しては?の何を果たそうとしたのか?と関連してきますが、チェザーレ・パヴェーゼは社会を捉える手段として詩を創作し、且つある程度の創作活動を経て言葉を失い死んでいったという結論になります。

最後に自分がなぜこのようなものを読んだかを考えるに、叙事詩がどうも分からない。私詩以外の詩を絶対いつかは書きたい、結局叙事詩を書きたい、と思っているからです。
東日本大震災に関して詩で何ができるかに関して、mixiの日記で次のようなことを書きました。

(詩の機能は)
「大体次の3つだと思います。
?多くの犠牲者に対する鎮魂
?生存された方々に対する勇気づけ
?この災害に対する記録及び記憶について映像や記事記録で残せない事実や思い。

?については
 詩歌が古来言霊であって、本来の実用性を最低この部分だけでも回帰すべきだと思います。詩歌において、3・11を個人的な悲しみのみに矮小化出来る問題ではないと思います。もちろん、個人的な悲しみのみの詩を否定するものではありませんが。この点かなり異論があると思いますが、それはこれはこれで是々非々で変わるべきだと思います。実用性という言葉が悪ければ、公共性と言い換えても良いと思います。
?については
 現代詩の詩人がある意味完全に放棄している領域だと考えられます。私は戦争協力詩に対する反省とは別ものだと思っています。むしろ、それを理由に矮小化して、国とか国土とか国民とか背を向けてきてたのが多くの現代詩の姿ではないでしょうか。多くの異論があるとは思いますが。
?について
 映像やドキュメンタリーなどで記録や記憶は残るかも知れません。しかし、心の持ち用も含めた全体像を記憶に残す一助として詩作が機能するのではないかとも考えられます。ちょっと矛盾した言い方になりますが、言葉にならない思いを残すことが、詩の重要な要素になります。」

 かようなこと考えていたとしても叙事詩に関して何も知らなければ、書きようがありません。下手をすると当事者でない人間が詩的感懐を述べるだけの薄っぺらい詩になってしまいます。私詩を書く立場ではありません。叙事詩を書くスキルがなければ何か表現することはほぼ不可能なこととなります。あの災害は神話の始まりとも考えて是非壮大な詩を書く方が出てくることを期待します(眼の海は感動しましたが)。



散文(批評随筆小説等) 叙事詩??物語・詩?? Copyright ……とある蛙 2012-09-05 12:26:33
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