呟き 詩と世界の等価性のことなど
るか

今時、いわゆる、詩と世界とを等価とみなすような愚か者は、そうはおられまい。どうやら、時代はそうした詩への信頼と期待とを、妄想として冷笑することがトレンドのようだ。私の場合、そのような世界そのものと釣り合ってしまうような詩的体験の記憶を想起しようとした時に現れる感覚は、西脇順三郎「天気」の経験から触発されたそれだ。
そこには間違いなく、永遠との繋がりを予感させるような朝があった。すべての境界を無化して広がる感性的な永遠のイマージュとでも呼ぶべきものがあった。


何故、かつての詩人たちが、作品と世界とを等価とするほどに、たかが言葉の営みに狂うことがありえたのかといえば、それは私たちのリアルな生活、人生そのもののなかに、体験さるべき何らかの真理=ポエジーのようなものを求めていたからに他ならない。いうまでもなく芸術は、フィクションの形式で真実を経験可能なものとする技術と考えられていた。シェイクスピアの頃から既にそうであるし、おそらく、あのソフォクレスのギリシアにおいて既にそうであったろう。この点においては、自由詩と和歌俳諧の区別もまたありえない。


真理もしくはポエジーの経験、獲得を人の生の目的と措く場合に、リアルな生も詩も、そのための装置として等しくなる。


余談だが神山睦美は最近、フーコー、アレント、吉本隆明を引きながら、死からの視線なるものについて書いているが、古代ギリシャの思想家たちや、孔孟、諸子百家、仏陀といった存在が都市文明の成立と分かち難いものとしつつ、それらの傾向がいわば集約されたものとしてイエスキリストを考察している。教会の外部の研究者たちの杜撰さには、教会や神学サイドから激しい批判も挙がっているが、誤謬に塗れていたとしても、なかなか興味深い一視点ではある。


勿論、人生や芸術を真理の一点に奉仕させる立場には批判もありうる。生活する人としての人道や倫理の面からみてどうなのか、プラトン以来の形而上学への、近代科学的な立場からの批判、唯物論的批判、等など。事実、知ることの可能なかつての詩人たちのなかに私は、明朗闊達、高潔にして世間から歓迎されうるような人格者など思いあたりはしない。真理ないしポエジーの私的な追究が本来全くのエゴイスティックな欲望から生じているだろうことを思えば、それも、驚くにはあたらない。


そういう訳ではあるが、私の現代詩批判は極めて限定的であって、詩など各人の趣向、自由に従って書くのでなければ仕方がないし、好んで読みはしないが、既往の詩もそれが本当に満足のいく形態ならば、好きに書いて欲しいと思う。私が夢見るような詩人が現れてくれないのは、必ずしも彼らのせいではないからだ。ただ、その流れがより豊かで正当的な芽を潰してしまうような現実がもしあるならばそれをおそれる。一つの支配的様式は、必ず他の可能性を抑圧してのみありうるだろうからである。


散文(批評随筆小説等) 呟き 詩と世界の等価性のことなど Copyright るか 2012-09-03 21:18:56
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