バス、バス停、水の中
はるな


たとえば、バスに乗るとして。
バス停で、バスを待っていることしかできない。ぎりぎりで走りこんだり、20分待ってもこなかったり、バスは、するけれど、ただ、わたし自身は、待つか、待たないか、それを決めることしかできない。選択というのは、そういうものだと思っていたときもあった。(いまでも思っている)。

待つというのは、それほど苦しいことではないです。待っているということは、少なからず、それが、来る、ということを信じている状態だからです。でもよくよく考えると、待たない、と決めるときの心持も、いっそすがすがしく、悪いものではないかもしれない。苦しさは、選択が並び、そのあいだでゆれる心のうちに宿っている。決められない、という苦しさ。それは、これまでわたしにはきちんと理解しがたいものだった。だって、生きてゆくということは、選び抜いてゆくことだし、多くのものが、早い者勝ちなのだもの。というのが一つと、もうひとつは、選ばれる立場であったということ。より良いものに選ばれるために、よりよい状態で選ばれるために、わたしはわたし自身を整え、精神や心を向ける。選ばれない苦しさ、というのももちろんありますが、それは苦しさというよりかは悔しさで、自分に向けられるもの、終わってしまったものへの悲しさとか。

選ばれる側というとなんだか傲慢なかんじがするけれども、それは選ばれないことの連続であるということでもあるのだし。みじめさなら昔々から知っていた。それがどういうものなのか、どうしたら振り払えるのか、どうしたって振り払えないものだということも。
それで、ああ、わたしも好きかってに選ぶということをしていいのだわと思い始めたのは十八すぎたあたりからで、例によってそれはお金やセックスのことなのだけど、それだっていま考えれば選ばれるためのもろもろ、「決める」という主体からはまだまだとおく、なにか大きなものの流れのなかにいてそれを泳いでいると錯覚するようなものだった。

いまでも、決めるとか、選ぶということは、なにかしらの悲しさを連想して、だってつまりそれは、なにかを選ばないということと同義でしょう、だからといって声をあげなければあとまわしになってしまう、という、切羽詰まった気持ちになるもの。ただ情動はべつもので、それはいつも精神をあっという間におきざりにして、あるいは体をあっという間におきざりにして走り抜け、ばらばらにしてしまう。
選択とも決定ともまた似つかわしくないもの。
ただそこにあって、みえるような見えないような、はじけるような包み込むような。
バス停を根こそぎ持っていく台風。

でも、それにしても、待たせるということは。
それはまた、想像もしない世界、待っていることにかんしてはこんなに考え、選択とか自由とか、意思とか、あるけれど、待たせるということは。
ああ胸がはりさけるとはこんな感じかなと思うほどに、いてもたってもおれず、飲んだ酒を吐き戻したり、それでもまだ飲み続けたりしながら、時間が二分ごとにのびたり縮んだりするし、ここにいるからだと、彼の待っている場所へいってしまった精神が行ったり来たりし、しまいにはわたしがどこにいて何が誰なのか、時計の読みかたもわからなくなる始末。

ただしいことをしたい、ただしい場所にいたい。ただしいものを抱いていたい。
何もかもを放り出して彼のところへ駆けつけるよりもただしいことがあるだろうか?
と、考えたきり、ぷつりと思考が焼き切れたように終わってしまって、あとはただ呆けたように残りの営業時間を、卵の薄皮を剥くように、剥くように、午前の四時まで過した。

あるいは彼も、そんな時間までは待っていなかったかもしれない。
さっさと家へ帰ってシャワーをあびて、用意されたシーツのうえで眠ってしまったかもしれない。どこにあるかもしらない彼の家。彼の生活が用意された家。
でもそれはまたべつの話だ。

それから、また、いろいろなものがばらばらになってしまい、なにもかも水の中にいるようにぼんやり遠く、こんな夜をみている。
わたしにとっての待つということと、彼にとっての待つということと、それはまったく違う意味だろう。それでも、早く来て、と、言った。夜で、すこしすずしかった。二人とも酔っぱらっていて、携帯電話の液晶は脂で汚れた。あちらがわとこちらがわで、早く来て、と、彼は言った。行きたかった。

バスが、行きたいのに行かれない、なんてこと、あるわけがないと思っていた。



散文(批評随筆小説等) バス、バス停、水の中 Copyright はるな 2012-07-25 00:16:59
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