おふくろの風景
……とある蛙

刈り入れ後の田圃
夕暮れ時に老婆一人
誰かを呼んでいる。
腰は幾分曲り膝に手を当てて
前を向き誰かを呼んでいる
視線の先には白い犬が一匹
老婆に向かって息せき切って走っている
懸命に走って走って
舌を出して息を涸らして走っている
ところが、
老婆の手前で犬は忽然と消える

私は老婆に呼びかける
「おふくろ〜」っと
あたり一面季節外れの蝉の声
私の声は聞こえない。

母は小走りし足元を見る
田圃に張り巡らされた用水路
深い用水路の中
犬が鳴いている
その鳴き声は聞こえない
私には聞こえない
犬が鳴いているのは分かるのだが
その鳴き声は聞こえない

犬は漸く這い上がり母の足下へ
足下で身震いして
水滴を夕暮れの空に
撒き散らす
あたり一面に撒き散らす。
季節は秋の筈だが
畦道の先の林から
蝉の声だけが聞こえ
犬に話しかける母の声は
聞こえない

満足げに頷く母は
犬にリードをつけて
ゆっくり歩き出す。
犬は振り返り振り返り
母の顔を見上げ
笑みを浮かべた母と犬は
そのまま畦道を歩き出す。
そのうち母と犬は影になり
畦道の先の林に消えてゆく

あたり一面青々した水田が
目の前に広がっている
夏の午後
その先にある三〇年前


自由詩 おふくろの風景 Copyright ……とある蛙 2012-07-12 10:13:37
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