一服
HAL

ゆっくりと列車が動きだした
この列車に乗るのはこれ1回限り

明確に行く先は知らないけれど
到着駅が近づいたときに

列車は分岐器で方向を変え
そのときにどの駅が到着駅かが

推測でしかないけれど
高い確率で分かってくる

右が何処に着くのか左が何処に着くのか
もちろん知らされる車内アナウンスもない

車窓に眼を遣ると見えるものは
産まれたばかりのぼくであり

すぐに車窓からは高速度撮影の様に
ぼくの青春が朱夏が白秋がそして玄冬が見えた

車窓から見える風景はそこで終わり
まるで列車がトンネルに入ったかの様に

車窓はずっと夜の様な風景がつづく
だけど星ひとつも月さえも見えない暗黒だけ

到達駅が近づいてきたのだろう
分岐器が働き列車にもその振動が伝わる

そして列車は到着駅のプラットホームで停まり
プシュと音がして列車の扉が開く

荷物は持っては来なかった
必要はないはずくらいは分かる歳だ

ホームに降り立ったのはぼく独り
この列車に乗ったのもぼくだけだったろう

別に出発駅のある街も懐かしくないし
そこで逢ったひとにも未練はない

ただ部屋を出る前に《The Sad Cafe》を
もう一度だけ聴いておきたかったと想う小さな後悔

ぼくは到着駅の表示看板を見上げながらその曲を口笛で吹き
辞めていた煙草を自販機で買い1本だけに火を点け残りは塵箱へ捨てる

もう40年以上も持ちつづけたジッポのライターは
もうぼくの手になじむものになり置き去りにはできなかった

久しぶりのラークの味は最初はやや苦かったけれど
深く吸い込むと60兆の細胞が喜ぶ最後の幸福の阿片になった

遂にこの歳になるまで心からの一服はできなかったけれど
これから長い長い一服が待ってるのをぼくはもう知っていた


自由詩 一服 Copyright HAL 2012-06-19 18:11:05
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