「告白」を読んで
そらの珊瑚
中一の娘が
「これ、めっちゃ面白かった。母さん、読んでみんさい」
と言い、渡したのは、湊かなえ著「告白」の文庫本だった。近くのコンビニで買ったらしい。
実は湊さんの他の著書は何冊か読んでいるのだが、これは未読。何年か前本屋大賞を取って映画化もされた。
私はあまのじゃくで、ベストセラー中の本は数年間寝かせて、ブームが去ってから読みたい派である。そうやって忘れてしまった本も多いのだが、それらはきっと縁がなかったのだろう。
縁というものは(本に限らず人でも)不思議なもので、一度切っても、再びひょんなことからつながるものである。
思えば詩を初めて書いたのは中学生の時だった。(内容はまったく覚えていないし、現物も残っていない。安堵!)それから何十年のブランクの末こうしてまた詩を書いているのは、きっと縁があったということだろう。(詳しくは年がバレるのでぼかします)
前おきが長くなってしまった。ここから本題。
まだこの本をお読みでない方のためにネタバレにならない(たぶん)程度の感想。
一言でいうと(乱暴だな〜)娘を学校で殺されたシングルマザーの復讐劇を書いたお話。
まず読後一番に思ったのは「救いがないじゃん!」ということ。不幸というか不運のオンパレード。救いのない本というのは他にもあるけれど、この後味の悪さがこの本の真骨頂であろう。(「殺人鬼フジコの衝動」を書いた真梨幸子さんと少し似ているかもしれない)
人間はちょっとづつ、ちょっとづつ間違いながら生きていく動物なのかもしれない。野生動物だったら、間違いイコール死となって、自分で背負うから潔い。
けれど人間はそうはいかない。間違ったことに気づかないばかりか、誰かに責任転嫁したりする。
全ては自分の撒いた種なのだ。そのことを肝に命じなくては。なんとなく子育てが怖くなってきた。てんで自信ないわ〜。
この本には、聖職者、殉職者、慈愛者、求道者、信奉者、伝道者と章立てしてあり、それぞれの章で違う人物が一人称で語られる手法をとっていて、ちょっとづつ間違っていく様子が複雑にからみあい、衝撃のラストへつながっていく。
今、教師が聖職者だと、学校が神聖な場所であると信じている人は果たしているのだろうか。教師も人であり、間違い、学校は集団のなかをどうにか溺れないように(いじめに合わないよう)アップアップしながら泳ぐ稚魚の群れなのだ。
すっかり湊さんのファンとなった娘は「贖罪」「少女」など次々と著書を読み漁っている。
親としては「星の王子様」とか「赤毛のアン」とか読んでくれてたら、とりあえずは安心なのだけど、困ったことにそういう類の本には見向きもしないし、そういうフリもしない。この間「母さん、子どもがクソババアって言ったら、親は子育てがうまくいったと思って喜んでいいらしいよ」とのたまい、あろうことかどこか自慢気。
い、いったいどういう道理か、おのれは、と聞いたら、なんでも心理学者かなんちゃら評論家だとか、名前は忘れたらしいけど、テレビでの発言らしい。つまりクソババアといえる関係に嘘はないってことだろうか? 私なんて自分の親にそういう暴言を吐いたことはただの一度もない。(思ったことは何どもある)なんだか悔しい。
いや、そんな理屈は断固絶対認めませんから! (アブナイアブナイ、危うく丸め込まれるところだった)
お気づきだと思いますが、娘の「クソババア」は日常茶飯事。嗚呼。
話が脱線した。戻します。
娘が読み漁っている湊さんの本の一冊の帯に「人が死ぬのを見てみたかった」という文字があり、つい「人を殺したりしないでよ」と言ってしまった。子の心配をするのは親の仕事であるから。
娘はジョークだと受け止めただろうが、母は半分本気である。
私は人を殺したら、どんな理由にせよ、自分の命で償うしかないのではないかと思う。
そこには本書で書かれているように「赦し」はないのである。生きている限りやり直せるという言葉は、人を殺した場合には当てはまらないと思っている。
その信念を貫けば、もし子どもが人殺しになったら、私は子どもを殺さなくてはならない。
人殺しとなった私は、自分の命を絶つしかないのである。本書のP277に「命は泡より軽くても、死体は鉄のかたまりより重い……」という描写があるが、現代社会の歪みを現す言葉として印象深い。最近逃亡者が捕まったオウム真理教の事件を思ってしまった。狂信の前では命などまさに泡より軽かったのだろう。人が命をおもうとき、それはファンタジーにもなりうるかもしれないが、死体はまさに触ることのできる実態。
まさか、そんなことがあるわけない。
小説の中の、映画の中の、一部の人のことでしょう……と笑って済ませられない怖さを思い知らされた小説だった。
誰しにも当事者になる可能性は零ではないのだから。
今朝は生憎雨模様。台風が接近するそうだ。
「車で送っていこうか?」
と問う私に
「うーん、まあ、いいや。そんなに降ってないし」
と雨合羽を来て出かけた。自転車通学なのだ。
気をつけて。
今日一日頑張って乗り切ってね。
娘は小雨の中を泳ぐ白い稚魚の群れに合流していった。
私もかつてはその群れの一部だった。しかし成魚になっても、いろいろあるんだな、これがまた。親道は修行の連続だ。
「告白」に修行者もしくは忍従者の章を書いてほしいと思ったのは私だけであろうか。