喀血するリリックの落ち窪んだベイビー
ホロウ・シカエルボク
湿気が脳幹を溶かして、俺の意識は肉体と断絶する、白濁する視界と馴れ合う網膜、弛んだ自我が滑り落ちる先は…僅かに開けた窓から、初夏の雨が滑り込む夜だ、しっとりと濡れていて、透明な存在の喀血みたいだ―フローリングの床に埃と体毛、カーペットの上にはもっとあるだろう、だけどそれはどこにあるのかほとんど見つけることは出来ない…日付が変わることを幻想だと思い始めたから、時が流れることを幻想だと思い始めたから、いまこの時の俺はきっとお終いなのだろう、消灯した部屋の中に在り得ない蝋燭の炎の揺らめき、酸素の代わりに虚ろを啜って水面のようにばら撒かれている…激しい雨の後、温度が再び上がり始める、全身に嫌な汗をびっしょりとかいて…季節が移ろいでいる、ベイビー、季節が移ろいでいるんだ、小さなハムノイズを立てながら…指折り数えていたのはなんのための祈りだい、きっと誰にも言えない種類の祈りだ、こんな時間に暗闇の中で折られる指は―小さなハムノイズの音は延々と続いていた、思えば生まれて初めて音を耳にした時からずっと、あらゆる場所で、俺はそんな音を聞いていた、だから、当り前に聞こえてくるものがあまり聞こえてこなかった、一度で聞こえることを何度でも聞き返した、そうしないと何か聞き漏らしている気がして…それはどこかで何かが立てる音ではなく、また現実でも幻想でもない所にあった、あると思わなければ?あると思わなければよかったのかもしれない、だが俺は聞いてしまった、その音があることを知っていた、だから耳をすましていた、ずっと、ずっと…痴呆症の老人のように口を半分開けて―その音には、決まった音色はなかった、少し高い時もあったし、少し低い時もあった、耳をつんざくような時もあったし、気のせいだと思えば思えるくらいの時もあった、脳幹に…そいつは隠れているのかもしれない―べとついた肌が寝床を拒絶する、昼間の間外気の影響をもろに受けるクローゼットに無理矢理閉じ込められているそいつらは、雨の日にはうんざりするくらいの雨の顔をして俺の身体を受け止める、どうにもならないことは必ずあるものよ、そんな訳知り顔をして―この俺はもう、半ば記憶が詰まった薄皮の袋みたいになってしまった、ほんのちょっとしたきっかけで破れたりしたら、その瞬間からもう俺ではないものになってしまうだろう…それは仕方のないことだ、俺は自分を律することの出来る存在だなんて一度も思わなかった、いまだって変らずそうだ、俺を制御することは出来ない、名詞で上手く分けられないものがこの身体からは溢れ続けている、そしてそれは、時々出口を見失ってしまって魂の袋をパンパンになるほどに脅かす、ベイビー、俺はその圧迫を言葉に変えてきた、折りに触れ…俺の魂は手綱の無い暴れ馬のように、荒れ果てた心中の大地を駆け巡る、押さえろ、捕まえろ…だけど誰もそいつを押さえることは出来ない―俺はそのたてがみの速度を記すべきだと思った、可能な限り、スピードを合わせて…押さえる必要などはなかったのだ、速度を上げて、もっと、もっと…いま思えばそれがきっと、幼いころから俺が耳にしていたノイズの正体だったのかもしれない、なあ、聞いてくれ、聞いてくれよ、俺は真っ当な不具合だ、そのことには間違いがない、そして不具合のまま生きようとしているんだ、身を投げ出して…絶対に解きほぐすことの出来ない縺れた糸だ、そして俺は、それを諦めようと思うことがない―それが俺のパフォーマンスであり、それが俺のエンターテイメントだった、それはこれからもきっと変わることがないだろう、なあ、ハムノイズが聞こえる、なあ、ハムノイズが聞こえる、ハムノイズが、ハムノイズが…それは胎動のようなものだ、俺は胎動を記憶しているアナログな記録装置だ、そしてそれを、なにか別のものに変換しようとしている、その目的が判るか、その動機が…俺は定められたもの以外の自分の名前を知りたい、定められたもの以外の自分の遺伝子を知りたい、定められたもの以外の自分の脈動を知りたい、肉体を脊髄からひっくり返しても絶対に見つけることの出来ないようなものを…俺は昨夜、ほとんど眠らなかった、だから今夜は、早く眠るつもりだった、だけど俺の中にある至らないものは今夜それを許してはくれなかった、真っ白のスペースを俺はキーボードで埋めてゆく、この羅列がどこへ向かうのか俺には判らない、この羅列が、どんなことを語ろうとしているのか―だけど、認識することが理解のすべてではない、だから俺はそれについて考える気がない、どこまでスピードについてゆけるのか?どんなことをすれば、スピードのままで言葉は詩に変わるのか?俺は本当はおそらくその答えを知っているのだ、ただそれは変換する必要がないものなのだ、真理は、差し出されるべきではない、そうだろ、真理は決して差し出されていいようなものではない、それは細胞の中の核のようなものだ、差し出したところですべては終わってしまう…雨を切る鉄の魚たち、こんな時間になっても泳ぐことをやめない、きっとやつらの目が光るせいだ、やつらの目を潰せ、そんなものは必要ない、俺は光について考える、眩しい光のことをこれ見よがしに歌う奴ら…光は、暗闇の中で目を凝らして見つけるものだ、眩しい光の中では、暗闇のなかよりも見落としてしまうものが多い―なあ、ベイビー、もしも名前をつけることが出来るなら、俺は見世物で終わりたい、俺の詩は、俺の言葉は、見世物になって終わって欲しい、人は見世物を忘れることはない、すべてを曝せる場所こそが本当はきっと美しいのだ、臆病な詩人たちが今日も、そこを避けて美しい言葉だけで愚にもつかないものを綴っている、悪いとは言わないよ、だけどそんなところに血流が生まれることはない、居心地の悪い温もりがなければ人は生きることすら出来はしないじゃないか…猫が餌箱を漁っている、あいつは一日中腹をすかせている、満たされた腹はパンパンに膨らんで、ああそれはどこかで見たことがある、ああそれはどこかで感じたことがある、そんな言葉がこの羅列のどこかにあった、その中に詰まっているのはきっとキャットフードと猫草だ、俺の中に詰まっているものもきっとそれと似たようなものだ、生きた内臓の臭いを言葉にしたい、生きた内臓の臭いをここに焼き付けてみたい、俺は悪趣味なんかじゃないぜ、お前はもがいたことがないのかい、ウンザリするような気分を味わったことがないのかい…?俺がスピードに食われるとき、きっと俺はどす黒い血を吐いて息絶えるだろう―例えば路上で誰かが、吐き出された俺の血だまりを見て、なにかを感じるだろう…もしもそれが俺の知り合いなら、間違いなく俺がどこかに書いた詩のことを思い出してくれるはずさ―俺は不具合を愛しているし、俺はハムノイズを愛している、俺は制御出来ない魂を愛しているし、内臓の臭いのする言葉を愛している、スピードの中で…なあ、生まれたとき、どんなふうに生まれてきた?思い出せるだろう?どんなものの中を潜り抜けてきた?いまなら思い出せるだろう?どんなことを考えていた?お前はその時、どんなことを考えていた?俺にはなんとなく思い出せるぜ、ウンザリするような母親の産道のなかを圧迫されながら潜り抜けるとき―きっと俺はやがて目にするだろう光のことを考えていたんだ…。