甘いウェハースのように、ほろ苦く。あるいは、循環する名付け直された世界について。
いとう

(たもつ氏作「透明人間と」に寄せて)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=271&from=listdoc.php%3Fhid%3D42%26from%3Dno





1.
 
たもつさんは異化効果を得意とする詩人だ。日常の中に何か突拍子もないものを入れ、普遍性を構築しながらそれを書ききる。平易な言葉で特異なシチュエーションを作り、そこからいろいろなものを浮かび上がらせる。
余談ではあるが、田口犬男氏(http://www.t3.rim.or.jp/~inuo/)や高階紀一氏(http://www11.ocn.ne.jp/~tkiichi/)を彷彿とさせる。
 
そして彼の詩の特徴は、特異なシチュエーションが平易に描かれていることにある。いつも軽飄な匂いを感じる。持ち味と言っていい。一見すると軽いのだが、その内実にセンチメンタルなリリック(抒情)が塗り込められている。幾層にも甘いクリームが折り重なったウェハースにほんのりと苦みを感じるように、どこかにほろ苦さのエッセンスが入っていて、彼の詩を読むといつも、このイギリス生まれのお菓子を思い出す。
 
 
 
2.
 
ときどき世界が波でできているように感じる。
世界は波長の差異と強弱によって構成されている。
共鳴したり、反発したり、対消滅したり、増幅したり。干渉し合う。
そこでは、物も人も変わらない。
心なんて波の性質の違いに過ぎない。
そしてそれらの波は、
名付けられることによって認識され、同時に限定される。
そのものを場に留めておくために、
名付けるという儀式が必要なのだ。
それと同時に、意思が名付けられることを許諾している。
意思ではなくエネルギーと言い換えてもいいかもしれない。
「石は石でいたいのだ」というアインシュタインの言葉は、
私にはとてもクリアに届く。とても澄んだ言葉として。
 
 
 
3.
 
世界だって「世界」という名で限定されている。
世界は世界でいたいのだろうか。
この詩において「透明人間」というモチーフは選択的に選ばれていないと同時に非選択的に選ばれた言葉である。モチーフから発生する世界(主題)を見せるためにこのモチーフが選ばれたのではなく、モチーフを選んだことによりこの世界が発生している。言い換えれば、「透明人間」を通して世界が再構築され(=名付け直され)、その世界が「詩」として我々の前に姿を見せている。あたりまえの話だが、この提示された世界は、透明人間がいなければ存在し得ない。
 
 
 
4.
 
ほろ苦さは、「さよなら」という言葉に集約されている。
 
(以下いろいろ書いたが、削除。前文を越える内容にならない)
 
 
 
5.
 
この提示された世界は、最終連、「私」という存在によってダイナミックに循環する。透明人間の「世界」が私の「世界」と重なり、視点が転移し、それぞれが鏡面のようにそれぞれの世界を映し出す。それはすでに二つの「世界」ではなく、循環しあう二つの世界によって構築される一つの世界として名付け直されている。その中で透明人間は、存在していないのではなく、非存在として存在している。「消えていった」は「そこにいない」ではなく「そこではないどこかにいる」と同義だ。そしてその中で「私」は、存在しているという名によって存在していない。鏡面を持つ世界の中では、存在するということは「そこではないどこかにいない」と同義となる。この「世界」ではそのような循環が宿命として行われ、この循環はタイトル内の「と」という助詞一文字に集約される。「透明人間と」。空白のページの中で、透明人間と私は、別れ続けることによって循環し続ける。






初出:「いん・あうと」10月号
http://po-m.com/inout/





散文(批評随筆小説等) 甘いウェハースのように、ほろ苦く。あるいは、循環する名付け直された世界について。 Copyright いとう 2003-10-23 11:33:24
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