伊藤氏の幻想
mizunomadoka

ある町を歩いていたとき
黒いスーツがアスファルトに
うつぶせのまま倒れていた
暑い日だった
私はすこしためらってから話しかけた
「大丈夫ですか?」と紳士的に

だけど返事はなかった

私は跨ぐのも失礼なので
車がいないことを確かめてから
車道に出た
すれ違うとき気になって
ちらりと見ると
ガードレールの下で目が合った
奴もこっちを見ていたんだな

奴は慌てて目をそらし
「車道だぞ」と言った
「ははん、つまり、影ですか?」
私がしたり顔で言うと
「つまらん!」と一喝された
腹が立ってね
私は無言で通りすぎたよ
すると後ろから声がする

「来週まで」
「ん?」
「来週まで雨は降らないそうだ」
「ああ」
「…………」
「水、飲むかい?」
「いただこう」

私は自慢の水筒を取り出して
黒いスーツに差し出してやった
けどあれは透過するんだな
影だから

「…………」
「…………」
「すまないが、フタを開けてもらえないか」
「ああ、すまん」
「それで影の方を私に注いでくれ」
「こうか?」
「違う違う違う、着地点を合わせるんだ」

私が水の角度を変えると
奴はゴクゴクと美味そうに喉を鳴らした
善いことをしたなと思ってね
空を見上げると
カラスが太陽を横切った
「シット!」
黒いスーツが慌ててブリッジをしてるんだよ
影のブリッジ見たことない? ああそう
奴はあの姿勢のまま
「鳥め!バカ鳥め!」と叫んでいたよ

しばらくして奴は
ようやく落ち着いたのか
ポケットからハンカチを取りだして
服についた水滴を拭い始めた
「災難だったな」と私が言うと
奴は頷いて
「あれらを駆逐せずになにが空の平和だ」
とかなんとかまだ毒づいていたから
「まあいいじゃないか。渇きも癒えたようだし」
って優しくフォローしたんだ
私にはそういうところがあるんだ
どうでもいい? ああそう

ところで
黒いスーツは立ち上がってね
まだ水滴が気になるらしく
神経質にハンカチを動かしながら
「何を言ってるのかわからないだろうが」
とすこし照れたように言ったんだ
「来週まで、正確には来週になっても彼女が見つからなければ、
力を貸してやろう」とね

私は黒いスーツを見た
そして目が合った
意味は分からなかったが
友情を感じたよ
「ありがとう」と礼を言ってね
それきりだったな

「それきり?」
「ああ」
「オチはなし?」
「マンガじゃないんだから、オチはないさ」
私は彼女にほほ笑む
「たいていの素人なら、雨が降るところまで話してしまうんだろうけど」
「意味が分からないわ」
「黒いドレスのきみも素敵だろうね」
彼女は首をふる
それが最高にセクシーだ







自由詩 伊藤氏の幻想 Copyright mizunomadoka 2012-05-01 21:45:17
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