誰にも決められることじゃない
ホロウ・シカエルボク




凍えたコンクリートに水が浮き出る
アンモニアのない小便みたいな臭いがする
剥がれた天井のボードの上に見える鉄骨は
もとの色が判らない位に錆びついている
おまえの死んだ理由は聞くつもりはない
おまえの生きてるときのことなんかまるで興味がない
おまえが生きてるときはきっと
おれよりもずっと賑やかにしてただろうから
漠然と殻だけを残したボイラーを眺めながら
おれはそんなことをぶつぶつと呟いた
聞いているのか聞いてないのか
おまえは超然とした佇まいを見せて
だけどこれ以上ないくらいにしがみついた埃に隠れそうになっていた
高音の電波ノイズみたいな鳥が鳴いている
空は晴れているがそこらに
昨夜の雨の名残が隠れている
ガラスというガラスはひとつもなくなるまで破壊され
歩くたびにシェーカーのような音がする
それはきっと鎮魂歌だ
失われた風景の中で鳴る音はみんな
柱の側の水溜りには
血のような赤が混じっていた
鉄錆だろうか
知らない間に足はそこを避けていた
犬の死骸があった
僅かに体毛を残した白骨
いつだったか写真で見たジャック・ラビットみたいに
あらゆる美と醜悪がそこにはあった
ハロー、ハロー、死んでどれくらい経つ
ハロー
肉すら臭わなくなってもうどれくらい経つ?
その首に首輪はなかった
ということはこいつは自由だったはずだった
こんなところで死ななくてもよさそうなものだが
でも
首輪が外されたときにここでよくなったのかもしれない
こいつは鳴いただろうか、朝や夕に
いつか一緒だったものたちのことや
自分がここに来た理由を思いながら鳴いただろうか?
研いだ針のような朝日に向かって
最後を知ったものの目つきのような夕日に向かって
そうしていつか息をしなくなって
蛆に食われて
風に
流れて
風の通ったあとには
少し減った質量の香りがしただろうか

魂には質量があると考えたやつがいた
きっとそれは正しいのだろう
何故か判らないことをおれたちはたくさん抱えているのだから
誰も触れることの出来ない窓から
早い午後の陽射しが流れ込んでいる
それは
現実に差し水をしてるみたいに見える
建物のせいなのか
おれのせいなのかはよく判らない
でかいタービンのようなものを回って
建物の奥にポツンとある机に向かう
どこにでもあるなんの変哲もない事務机
でもそれは時の万人のような顔をしている
鍵のかかる引き出しには鍵がかかっていない、すなわちもう終わっている事柄
引っ張り出すと30年は前の日付の小さなノートがある
ページを開く
備忘録のような日記がこまごまと書いてある
仕事の話や与太話
里に残してきた家族の名前なんか
最後のページには悲しみばかりが記されてある
まるでこれを書いたものがここから下りることが出来なかったみたいに
長い年月を耐えた壁が風に軋む
おれはいちばん高い窓に目をやる
もとの色が判らない位
油にまみれた作業服を着た男がこちらを見下ろしている
かれはゆっくりとこちらに降りてくる
勝手に読むな、と言う
おれは詫びる
まさかまだ作者がいるなんて思わなかったと
かれは僻み笑う
「いるに決まってるだろ」
いなくなることなんて出来るわけがない
自分はここにしがみついて生きてきたんだ
ここがなくなることは自分がなくなるのと同じことだと言う
そんなことはないだろ、とおれは異議を唱える
「まだまだ選択肢はあったはずだ、家族のためにもあんたはなにかしら選ぶべきじゃなかったのか?」
家族、とかれはぼそぼそと言った
「ここが駄目になる半年くらい前のことだよ、おれはまとまった休みを貰って久しぶりに家に帰ったんだ、おれがここで苦労して苦労して建てた平屋さ、妻と子供はおれのことを、望まれない幽霊を見るような目つきで見た、無理もないさ、仕事をこなすことに必死で、盆も正月も家に帰れなかった、おれとあの家の繋がりはもう、月々の生活費ぐらいだったのさ、仕方がないなと思ったよ、だけどおれの家族だ、おれの家だ、おれと神様の前で誓った女とその娘のいる家だ、おれは休みの間そこで過ごすつもりだった、だけど二日だけ居てすぐに出てきてしまった、休みの間この横にある職員宿舎でじっとしていた、街で買いこんできた酒を飲んで、糞つまらねえ雑誌のページをぱらぱらと捲ってさ、これでいいんだ、と思った、いつかは変わることがあるかもしれない、それとももうこのまま変らないのかもしれない、それは絶対に判らない、ならばおれはここで彼らのことを思いながら生きることに決めた、家族のために金を稼ぐことに決めた、だからこれでいいんだ、これでいいんだってずっと考えてた、考えているうちにいつのまにか、残りの休みも終わっていた、おれはこの服を着て、作業場に出て、自分の仕事をきちんとこなして、夜には食堂のまずい酒を飲んで、綺麗な星空を見て、明日も頑張ろうって寝る、そんな生活が嬉しかった、少なくともここには、おれがわくわくするつながりというものがあったんだ、もしかしたらいつのまにか、それがおれにとっての家族というようなものになっていたのかもしれん、妻や娘は、おれのそうした部分を感じ取っていたのかもしれない、それでもよかった、おれは自分の選んだ生活を維持していた、それでいいと思っていた、どんな家族がよくて、どんな家族がよくないかなんてそんなの誰にも言えないだろう?だから働いた、すべては決められていることだった、おれは自分で何かを考えることが苦手だったから、そんな風に決められたことを遮二無二やってる方が楽しかったんだ…だけどある日、突然顔も見たこともなかった男がここに顔を出して、もうここは停止することになった、と言った、おれは何も考えられなかった、数日中に荷物をまとめて引き払ってくれ、と男は言った、おれはぼんやりとそうですかとかなんとか言った、新しい仕事が見つかるまでは家族サービスでもしてやるといい、男はそう言ってけっこうな額の金をおれのポケットに滑り込ませた、いままで見たこともないような額だった、おれはその日自分でもどうしたいのか判らないまま、すべての動力を止め、配電盤を切り、宿舎を片付けた、食堂で数人の同僚が話しかけてきたが、すべて適当に話しを合わせるだけだった、やつらはみんな嬉しそうに見えた、おれは次の日家族に、ここが閉まることになって退職金を貰った旨を書いた手紙を送り、銀行で全額を口座に入れた、それから宿舎に帰って酒を飲みながら考えた、考えているうちに夜になった、星空が綺麗だった、いつもに増して綺麗だった、それを見ていると涙が出た、大声で泣きたかったけれど、そんなことをしたら外の部屋に居るやつらに笑われるだけだったろう、だからおれは宿舎を出て山に入った、一時間ばかり森の中を泣きながら歩いた、そうしているうちに気持ちは落ち着いた、あんたの言うとおり、ほかの何かを選ぶことも出来ただろう、だけど俺はどうしてもそういう気になれなかった、言っただろう、おれはなにかを考えることが凄く下手なんだ、もうこの仕事を覚えたときみたいになにかを懸命に頭に叩き込むことなんて出来ないと思った、それにおれはここが好きだった、仕事をしている時は楽しかった、おれたちが若いころにさ、家族は運命共同体だっていう言葉があったんだ、どこでそれを聞いたのかもう忘れたんだけど、ラジオか何かかもしれない、とにかくその言葉が一番しっくりきた、おれは玉かけなんかに使うワイヤーを使ってさ、あの窓、さっきおれがいた窓だよ、あの窓の上の鉄骨で首を吊って死んだ…もうどれぐらい前のことなんだろうか、20年、もしかすると30年は過ぎたのかもしれない、おれはここに命をささげた、それからここはずっとこのままさ、時が止まってるんだ」
かれはそう言ってぐるりと自分が命をささげた建物を見渡した
窓から差し込む太陽にはもう色がつき始めていた
日が暮れるよ、とかれは言った
「悪かったな、長話してしまって」
おれは黙って首を横に振った
かれはにっこり笑ってふわりと窓に戻り、ひらひらと手を振って見せた
おれも同じように振りかえしてそこを出た
出口のところであの水溜りが目にとまった、ああそうか
あの水溜りの赤は…


山を下りるときに一度だけ振り向くと、赤く錆びたその建物は
まるでおだやかな墓標のようにおれには見えたんだ






自由詩 誰にも決められることじゃない Copyright ホロウ・シカエルボク 2012-04-27 00:22:56
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