シェイクスピアの遥かな偉大さについて
yamadahifumi

 シェイクスピアについてはもう言われるべき事は言われているかもしれない。だが、現代ーーー二十一世紀の人間ーーーつまり僕ーーーが今、シェイクスピアに出会った所で、それは全く古臭くもなければ、むしろ新しくさえないと感じる。それはただ普遍的であり、広大で、深遠であり、・・・とどのつまり、「この世界とは全く違う偉大な世界があるのだな」(それらは全てシェイクスピアが造り出したものなのだが)という感慨を神経の濃やかになった現代人にも引き起こす。だからこそ、シェイクスピアについてはまだ語る余地が・・・というより、それについて語る事で、人類の上に現れた、容易に人類を飛び越したこの大天才について語る事で、こうした人間とこうした作品世界が我々に与えられた喜びを繰り返し感慨深く味わう事もあながち悪いことではないと思うのだ。
 こうした言葉達はひどく誇大妄想気味で過熱気味、信者的発想のたまものであると懐疑的な現代人には思われるかもしれない。だが、それは全くそうではない。これは一読すればすぐわかることだが(もちろん感受性が多少ともなければ何も感じないだろうが)、こうした過熱気味の賛辞すらシェイクスピアの偉大な作品世界においては全く無力であり、空々しい賛辞にしか過ぎない、ということを言っておきたい。・・・というのも、シェイクスピアの偉大な世界は、人間にとって余りにも巨大だからである。それは人間世界を元に作られ、転写されたもう一つの世界なのだが、そのもう一つの世界は、我々とどこかで接続していながらも、また同時に全く次元が違うと思わされざるをえないような代物なのである。
 ではその「次元の違う世界」とは何なのだ?・・と問われれば、徹底的に内面的な世界と僕は答える。この徹底された内面性の世界では、あらゆる悪徳も俗悪も、善や愛、憤りや悲しみといったものも、外面を描写する事によりその内面が察せられる、というような普通の小説家の取る方法を全く、取っていない。それはもはや、シェイクスピアによって人間からはぎ取られたあるゆる感情や内面性に、かろうじて人間の皮を被せている、というようなものである。だからシェイクスピアの作品に出てくる登場人物は人間というよりも、人間の内奥に秘せられた魂に辛うじて人間の外観を施したものであり、だからこそ、シェイクスピアの作品には悪霊、亡霊、幽霊、魔女や妖精達が表れ乱舞し、それが何の違和感もないどころか、登場人物の方さえもそうした妖精や悪霊達に姿形がそっくりになっていっても、何の変哲もなく我々は読むことができるのである。
 我々の人間世界の内における真理とは、我々の内に内蔵されている。それは我々の内に隠されていて、そして結末すらも予想できる事を可能にする真理かもしれない・・・。シェイクスピアの目には人間とはもはや既知の存在であった。彼は、自分達が賢いと考えながら、愚かな行動に走り没落するような人間の絶望ーーーいや、その真理というものをはっきり抜き出して呈示してみせた。(もちろんそれだけではないが。)そしてこうした人間にまつわる真理、その運命、宿命というのはシェイクスピアにとって余りにも当たり前のものであり、彼にはこの世界がもはや二重に見えていのだ。彼は現実世界の上にもう一つ、魂の層を重ねた「シェイクスピア的世界」とでも言うべきものが見えていた。彼はそれをたまたま紙に書き写して、私達に見せた。私達が紙の上に書かれた文字を通して見る世界は、彼ーーーシェイクスピアが見た、この世でありながら、全く別物のもう一つの世界である。
 ここにおいて、少しはシェイクスピアの魅力に触れることができたように思われる。だがシェイクスピアを直に読む人は、僕の言葉が何一つ語っていないことを知るだろう。


散文(批評随筆小説等) シェイクスピアの遥かな偉大さについて Copyright yamadahifumi 2012-04-10 09:46:12
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