連続する増幅、扁桃腺の様な幻
ホロウ・シカエルボク
脾臓に隠れたものが一番正直な感情だ、駱駝色の夢が見たくもない動機を浮き彫りにするころ、短いうわ言の隙間に考えてはならない衝動が見え隠れする。有無は問わず。亡霊的な位置に甘んじている肉体がシニカルな認識を自嘲的に語り、連弾されるピアノの様な心臓のハイスパート。浅い息。切れかけた蛍光灯の催眠術めいた明滅…強情な異物を強制的に排除しようとしてるみたいに、異常な増幅を時折繰り返す血管。荒唐無稽な浸透を受け入れて、奇形化してゆく脳漿の配列…扁桃腺の様な幻が中空で回転している。どこを軸にしているのか判らない。接円を次々と描いていくみたいに跳ねまわっている…ごく稀にカーテンを凌辱するハイ・ビームの光点、光を捻じ曲げるクリスタル・ボーイはここにはいない。それは秩序を保っている、秩序を保って…在ったり、無かったりする。指先で死んだ言葉たちの亡霊は、爪の内側に極細のノイズをカリカリと描き続けている、壁の向こう側に住んでいるネズミと同じリズムでさ、そう、引っ掻いて、ばかりいる…それが時々、痒くなるときがある、だけどそれはどんなものをもってしても、解消することが出来ないのだ、死んだ言葉の亡霊たちしか、そこへ入りこむことは出来やしないから。俺の指先はいつでも、死の前後にまみれているというわけだ。こんな風の強い夜には到底無理な話だけれど、時々…彼らが爪の内側を掻く音が聞こえることがある、内にも、外にも、騒ぐものが何もない日に…諦観によって組みふされたみたいな、そんな夜に。それは勝手に生まれて勝手に死んでゆく砂山に似ている。もしも永遠が欲しいなら儚いものになればいい。回転している扁桃腺は天井の隅で動きを封じられて小刻みに震えるだけになっている、あれの正体を知りたいか?俺は知りたくない。あれはたまたまここに現れただけの無意味な概念だ…出会うもの全ての名前を覚えるわけにはいかないということを覚えておけばそれでいい。そんな幻が現れない日は、俺の観念的な側面だけが、操車場で向きを変える車両の様に回転していることもある。そんな日には俺はあたりにある何もかもをいいかげんに認識してしまう。いつまでたっても焦点が定まることがないから、視覚をハナから投げ出してしまうのだ。そうすれば魂が酔っぱらうことはなくなる。動きの中に居続けると魂は静かになる。システムを更新することに没頭する。ただそういうときには、血管のやつがいつもに増してボコボコに膨れたりするのさ。パンクしそうな回線みたいなイメージさ…たくさんのものが流れている、たくさんのものが…循環している。そんな動きの中で、報われなかったものたちだけが亡霊になる。爪の内側でカリカリと音を立てる。聞こえることすらない音こそが衝動と思えることだってあるさ、往々にして激しさは取り違えられるとしたものだ。ほら…もっとも激しく泣くものは赤子じゃないか。そんな概念を神の様に崇めてしまったら、他人の乳をアテにし続けるのがオチってものさ。衝動は、最も静かな場所から聞こえてくるのが本当なんだ。深く沈む身体、高く浮き上がる身体、連続する増幅の中で誰もが、ベスト・チューニングを探し続けている、だけど、いまもって、ここだという場所は見つかったことがない。それが証拠に、今夜もたくさんの詩が生まれているじゃないか。沈没と上昇、それは同じものだ、いちばん低いところと、いちばん高いところがあるだけさ。だから俺が見せられるのはいつだって過程なのさ。結論にしてしまえば、見栄えはいいけどどちらかでしかないからね。どんなに誇り高くったってそれは日和見主義さ。天井の扁桃腺は連続する振動の中でわずかなズレを作りだして上手く脱出した、そうして天井のクロスをなぞるようにまた例の動きを始めた。そうだよ、連動するものこそが思考であるべきだ。駱駝色の夢の中に見たものをいつかここに生み出せるだろうか?俺は肉体と魂の僅かなズレを感じながら考える。それはたぶん、いつかは。だけどそれはきっといまじゃないのだろう。こんなふうに考えているうちは。それはいつか突発的に気の利いた言葉にかたちを変えるだろう…夜の中で生まれたものが朝の中で死んでゆく。そうしなければ朝を生きることが出来ないからだ。朝には朝の言葉というものがある。それは無意識に切り替えられる配電盤のようなものだ。夜生まれる言葉は朝を迎えるために。朝生まれる言葉は夜眠るために。連続する増幅の中で誰もが、ベスト・チューニングを探し続けている、そしてそれは、永遠にここだと決まることなんかない。もしも永遠が欲しいのなら、儚いものになればいいのさ。