山田せばすちゃんショウ・・・何回目か忘れた(苦笑)「酷評の彼方に」
山田せばすちゃん

山田でございます。
さて今回のお題は「酷評を超えて」お前が言うなというディスプレイ越しの突っ込みの罵声やら果ては手近なものを投げてぶつける皆様のお姿が、なにやらこの耳に聞こえ、はたまたこの目に浮かぶようではありますが(笑)
(念のために申し添えておきますが実際にディスプレイになんか投げつけて結果ディスプレイが回復不能な状態に陥ったとしてもそれは俺のせいではないので悪しからずご了承くださいませ、いやいやとにもかくにもディスプレイの故障、特にノートパソコンのディスプレイの損傷は高くつきます、他愛のない夫婦喧嘩の口論の挙句、憤然と勢いよく立ち上がったところまではよかったものの足に電源コード引っ掛けて、あおりを食らって机より落下した私が2年連れ添ったノートパソコンのビブロ君は、そのままディスプレイが事切れて修理見積もり代金が10万と4800円、まだローンが1年残っているのに泣く泣く廃棄の憂き目にあいました。現在は型落ちのデスクトップタイプにウインドウズXP突っ込んでどうやらこうやら過ごしておりますがいずれメモリ増設は避けられそうもなく、ひたすら妻に恭順の意を示す日々でございます、近況報告終わり、というのもバックアップとってなかったもんだから(間抜け)日記サイト「エンピツ」のIDもパスワードもなくしちゃったし新規募集は停止中らしいしこういうことを書くところをなくしちゃったのさ、ってでも俺の近況を知りたい人がいったいどれだけいるのか、俺はいまだに謎なんだけれどさ)

さてわが若年ながらも尊敬する(というか現代詩フォーラム関係では俺よりも年長の方を探すほうが難しいのだけれど)畏友原口君のご指摘どおり、批評をめぐる議論よりもまずはよい批評を!というスローガン(つか原口はそんなスローガン叫んだつもりはないかもしれないけれど)にも拘らず、今回も俺は声高に吠えながらもぐるぐるとその周囲を走って回るにとどまる愚かな犬のごとく批評そのものではなく批評論を繰り広げるしかないのだが、だって俺が批評を書きたくなるような魅惑的な作品に最近つとお目にかかった例がないんだもーんって、でもそれってただ単に俺の勉強不足、努力不足なのかもしれないけどさ。

というわけで酷評である。
某サイトではわざわざ「禁止」と大きく断り書きされている禁断の批評である。はたまた某サイトではわざわざ俺のこと名指しで「あんたの批評はいらん!」と注釈を入れられたりもした酷評である。某サイトではわざわざ俺のIP調べた上でアクセス禁止処分にしやがって悔しいからこっちも夜中にわざわざネットカフェまで出張って思いっきり書いてやったその酷評である。某サイトではわざわざ変名まで使って書いたのにその口調からすぐ「山田だな」とばれた上に「山田がいるんならこのサイトには投稿しない」とわざわざサイト主に直訴したやつがいるらしく、サイト主からその旨「申し訳ないがご遠慮願いたい、これは失礼ながら、お納め願えれば」などとウエブマネーを包んでメールが届き、その返信に「では看板はもらっていくぞ」と書いてサイトバナーを持ち帰ってきた、その酷評である。(すいません途中あたりから嘘です。)

では酷評とは何か。
酷評とは基本的にこの詩はだめである、ということを述べた批評のことなのらしいのだが(書いてる本人にはあんまりそういう自覚はないのだが)もちろん批評であるからして単にだめだ、とか、つまんない、とか書いて終わりなのではなく、どこがどうだめなのか、どうしてつまんないのかについて詳細に批評者の視点、もしくは詩の理論的立脚点から理路整然と述べられる必要があるのだけれど、実はそれってもしかしたら「共感しました」とか「すごくいい詩ですね」とかの毒にも薬にもならんような「感想コメント」に比べればひどく書き手にとっては手間のかかる作業であり、本音を言えば何でわざわざここまで手間隙かけた挙句に嫌われちゃったりするのだろうと、その不毛さに思わず窓の外に覗く半分だけのお月様を見ながら弱気にも涙流しちゃったりすることもあったりするのだけれど、そういうことって多分作者の皆様の想像力のおよそ範疇外なんだろうなあ、まあ酷評されてため息つきながら窓の外に光る火星を見上げながら泣いちゃう作者というのも、俺にとっては想像力の範疇外なんだから、おあいこといえばおあいこなんだろうけどさ。

「作品」というものは実は作者によってのみ成立するのではなく、(そりゃ作者が書かなきゃ何も始まりはしないけどさ)読者がいて初めて成立するものなのではないかなどと、実は俺は思っているわけで、たとえばその伝でいけばいまだ作者以外の目に触れたことのないいわゆる未発表の作品なんぞというものは実は「作品」ではなかったりするのかもしれない。もちろん作者が作品の第一の読者である以上、作者=読者という関係においてはその作品は「作品」として成立してはいるのだろうけれども、たとえばいまだその作品を読んだことのない俺との間では、その作品は「作品」として成立していないのではないか。それはつまり逆に言えば、たった一つの作品は無数の読者の目に触れ、読まれることによって無数の「作品」として成立するということでもあるのだけれど。そしてその読者も、一度目に読んだときと二度目に読んだときとのあいだにもし「作品」の印象が変わることがあったりしたら、一度目に読んだときの「作品」と二度目に読んだときの「作品」は実は違うものであるということになるのかもしれない。もちろん、二度目、三度目はそれまでに成立した過去の「作品」の印象をいやおうなしに引きずるものであるだろうけれども。「作品」はそのときその場所でのみ成立する一回きりの体験としてある、したがってひとつの作品によって成立する「作品」の数は無限であるが、読者はその一回きりの体験としての「作品」を余すことなく堪能する義務がある、なんて考え方は、魅力的に聞こえないかい?(俺にはとっても魅力的なんだけどさ)

そんな風にして「作品」が作者と読者によるただ一度きりの共同作業の結果であるとしたならば、その「作品」が酷評されたときの責任も一方的に作者の側が負うべきものであるとはいえなくなるよね?だって共同作業の結果だもんね、「うちの子供が馬鹿で不細工なのはあんたのせいよ、」「いや、お前のせいだよ、」「いやいや二人の子供だもの、二人とも何かしら責任があるのよ、」なんてそう考えれば、酷評された時の落ち込みも今までの半分になる、とかそう都合よくはいかないもんだろうかね(笑)んでもってその酷評も無数に生まれる「作品」のただひとつだけの結果である、なんてことになれば、作者が今まで味わってきた酷評されたときの哀しみは、二分の一のそのまた無数分の一…なんだよ、それって数学的には限りなくゼロに近くないかい?いやそれでもまったくのゼロじゃないってあたりに実はちょっとした味わい深さなんかも感じてもらいたいところではあるけれどもね。作者にも読者にも一回きりの経験は、一回きり故に極限まで体験しつくされるべきであるというあたりのこともちょっと考えておいてほしかったりもするし。

酷評されると落ち込んだり切れたりするのはなぜなんだろう?
そりゃあ誰だって自分の作品をけなされてそれがとてもうれしいというわけはないだろうけれど、時々てめえの人格丸ごと否定されたかのように烈火のごとく怒るやつがいたりするんだよね。俺宛のメールにやたらわけのわからない出会い系サイトからの広告メールが増えたり、知らない外人からのやたらに重いんだけれど開けてみたら何にも書いてないメールやら謎の添付ファイルのついたメールやらがどんどんやってきたりするのはなぜだろうという疑問と、それはおそらく対を成す現象なのじゃないかと俺は時々思うんだけれど(笑)(あ、ちなみに、俺が公開してるメールアドレスはホットメールだし、怪しげなメールは一切触れることなくゴミ箱行きなので、もしかしたら大事なメールを流してる可能性もほんの少し、無きにしも非ずではあるけれど、そういう類のいたずらは無意味に無駄だからね、などと一応書いておく)
他の人はともかく、というか他人のことまで責任持っちゃいられないやというのが本音だけれど俺は作品を丸ごと否定したことは、悪いけれど死ぬほど記憶はあるのだけれど、作者の人格のすべてを丸ごと否定した記憶は一回もないんだよね、いやそれってただ単に俺の記憶が都合のいいことしか覚えてないだけのことかもしれないけれど(笑)つか、「作品」=作者ではあるかもしれないけれど、作者=「作品」ではないんじゃないの?ついでに言うと作者=あなたかもしれないけれど、あなた=作者ではないんじゃないかな、などとも考えてしまったりするのだけれどね。俺は山田せばすちゃんだけれども山田せばすちゃんだけじゃないし、山田の馬鹿野郎!といわれても山田じゃない部分の俺は言われてないわけじゃないか?(まあ別の部分は別の部分で馬鹿だの人でなしだの言われたりもするんだけどね)そういう意味で作品を酷評されても全人格を否定されたように思う必要はなかったりするんじゃないの?

などと書きつつ、今夜はそろそろスタミナ切れである。(この項どう続けよう?)


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃんショウ・・・何回目か忘れた(苦笑)「酷評の彼方に」 Copyright 山田せばすちゃん 2003-10-22 02:48:44
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