智慧の実スケープゴート説
salco

テーマ/創世記の作意を疑ってみる

 ここ100年間、基礎科学、応用科学とも各分野の発展はめざましい。10年タームで加速度が増している感がある。
 それでも一般庶民が享受するのは、さしあたってのトリビアを除けば利便と時短ぐらいで、喜怒哀楽、思慕・愛情、厭悪・憎悪の
情動から労働、分娩、子育て、老衰から死まで生活の基本形態は変わらない。例えば清少納言がまたがっていた便器と現代人が腰を
下ろすシャワートイレとの間には千年もの歳月が流れているというのに、進歩度合は上下水道管と温水ノズル程度のものだ。原理自
体が不変だからさして変わりようがない、といった感じ。地中の水道管が壊滅すれば、公衆衛生はたちまち「羅生門」だ。


 旧約聖書が編まれてたかだか4千年。往時の人々のアタマと現代人のそれとを隔てているのは解明事物の堆積だけであって、知力
自体が進化を遂げたわけではない。数学の定理は紀元前数千年からある。文盲と大卒の差は思考力ではなく、嚥下した課題と参考書
のページ数でしかないと言えるように、未知に食い下がる探究衝動、寝食を忘れるほどの思惟耽溺傾向については往時の律法学者も
いやというほど自覚していた筈で、脳のポテンシャルと未来とに思いを致した時、いずれは神威に並ぶとまでは考えなくとも、必ず
や挑戦するに至るであろうと予見していたことは確かなのではないだろうか。


 そこで、アダムとイヴの話になる。

 神を裏切る。
 この入れ知恵をヘビに預託しているが、幼少期を振り返れば誰しも自明であるように、
 好奇心の誘惑 
 言い訳の狡知
 これは既に人間の裡に用意されてあるものだ。己が生命力を強力に補佐する理知を、イヌやサルの学習とは異なるたぐいの潜在能
力として生まれながらに持っている。
 そこで神なる摂理と人間を対置した時、智慧を果実として神の所有物である1本の樹に置かざるを得なかったのは、神の優位、支
配性を禁忌で主張するしかなかったからだろう。人間の智慧(潜在能力)は、神から「盗む」事で獲得したのだと定義する必要があ
ったのだ。でないと己が思惟と神の思惑との対立軸を外せない。


 こうして人類の祖は神様お手製のアホとされ、オイタがばれて悄然と楽園を去る事になった。
 「それ」は股間のいちぢくの葉っぱという些末で矮小な自意識に置き換えられ、こうしてエデンは映倫推奨モザイク発祥の地であ
る。だからパパとママはベイビーの発生学について、今に至るもお前たち18歳未満にはツマビラカにしたがらないわけ(イチヂク
派の強迫観念は中世期に発達し、現代では性的興奮の本質(支配関係の確認)を高める為の逆説的な装具となっているが、各種貞操
帯を含め拘束具は本論に外れるので、ここでは言及しない)。


 しかるのちは神と人間との契約話が延々と展開する。
 ギヴ&テイク、ギヴ&テイク、エトセトラまでギヴ&テイク。人間の知力をひとまず棚上げして、ひたぶるに上意下達は試練、
伺候上奏は忠誠という形で、その主従関係の強化が図られるのである。
 ― そんな所業を働くとこんな天罰が下る
 ― このように拝み倒せば執行猶予される
 
 これもにんげん自らアタマを酷使して絞り出した定理だ(何故なら落雷で死ぬのが特段の背徳者でないのは恐らく古今東西変わら
ず、たまたま海岸やゴルフコースで突出していたのを傲慢の罪とするのは「解釈」でしかない)。しかしこのように主の意向を詳述
する事で、却って絶大の不可知たる神を人間側が規定したとも言えるのだ。ヴェールを描き込む事でヴェールを剥いでしまう、言葉
という絵筆が孕む自己矛盾、つまりお節介。


 一方、智慧の実なる大脳新皮質の植生域は、神学の外縁で拡大して行く。
 割礼などせずとも神から見放されぬ分派が勃興、膨張増長して行ったように、4W1H(*)に准ずる異端の輩が忘れた頃に立ち現
われては、
 「それでも地球は回っている」とほざき、
 林檎が落ちたのは万有引力が働くからだと言い出し、
 ついには人間の祖先は神粘土及び肋骨ではなくエテ公だと吐き、
 E=mc² そら何のこっちゃ、
 神の言には見当たらぬ古代生物の骨を放射性同位元素で鑑定する、
 細胞核をこじ開けて染色体をつまみ出し二重螺旋をほどいて組み替える、
 神が後ろ手に隠して説明を拒んでいた筈の摂理までも発見し、尻馬がこぞって次から次に証拠物件を引っ張り出して来る。 
 これは白昼堂々の果実盗みまくり、バクダッドやトリポリ宮殿の略奪どころではない所業ではないか。


 そこでローマ法王が公式に地動説を認めたのは、ガリレオ・ガリレイ没後366年の2008年。
 人工授精だのミトコンドリア・イヴだの造血幹細胞移植だの、神をも恐れぬ真理と技術で世界は満ち溢れ、探査され精査され、
世界中の信徒が報道や小学校で習い知る事柄を、それでもヴァチカンは認めない。伝家の宝刀、こよなく真摯なアナクロニズムは
まだしも、東日本大震災被災地の少女が
「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」
 と問えば、教理の最高権威がこう答える始末。
 わしにも何故だかわかんにゃい。でも神は共にましますのじゃよ。
ベネディクト16世の回答(イタリア語の英訳)ニュースVAより;
“I, too, wonder why. We don’t have answers, but we know that Jesus suffered like you, an innocent victim.
God loves me, He is on my side, and one day I will realise(ママ) that this suffering wasn’t meaningless.
Rest assured, we are with you, with all Japanese children who are suffering. Let us pray together that light
will come for you as soon as possible.”
(わたしも何故なのかと考えています。わたし達に答えはないが、イエスもあなたのように無辜の犠牲を払った事は知っています。
神はわたしを愛して下さり、共に居て下さるので、いつの日かこの災難が無意味ではなかったと気づくでしょう。
安んじて、わたし達は被災したあなたや日本の子ども達みなと共に在ります。一刻も早くあなた方の為に光が射すよう祈りましょう)

 誠実とも思える。しかし質問者は生後7年でも、回答者は2千年をバックボーンにしているのだ。自然災害も「御業」とする信念を
持ちながら、その御旨についてはさすがに配慮せざるを得なかったのかも知れない。人望と政治力とで頂点まで登りつめた知者が、ま
さかアメリカ中西部あたりの福音主義者みたいに「黄禍への天罰じゃよ」などとは言えない。国際問題になる。
 しかも相手は7歳、キリストの膝上に座す有資格者ではある。開祖御自ら、神の国に最も近いと述べた頑是ない御仁だ。だから骨子
は、信心すれば恐れるに足りぬという事らしい。自己暗示を怠るなと。これも見方を変えれば、何でも神のせいにして済ます論理の破
綻と取れなくもない。このたびの神意を不可解(Wonder why)としながら、被災および犠牲には意味がある(What for)
とし、生ある信者には恩寵を請合っている(How to)のである。
 無論、法王庁が気象庁より理に明るくないのは予報や預言が任ではないからで、いつやら科学とは争わぬ事と決めたらしく、昨今、
管轄は専ら倫理である。それでもカノッサ沙汰は起こるべくもない。

 
注 * …5W1HからWhoを外したもの



散文(批評随筆小説等) 智慧の実スケープゴート説 Copyright salco 2012-03-13 23:18:08
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