下痢になっては書けないから
番田 


洋楽好きといっても、日本人である以上は、日本人である理由をどこかに隠しもっている日本人ばかりである。ブルースの影響が少しでもないと、結局は、洋楽であるとは言いきれはしないのだ。そんなふうに、多くのことが、寂しい。哲学として何も自分に持たないと言うことが。洋楽好きのアイツが聴いていた音楽は、全てJ−POPのスタイルとして成り立っていたものばかりだったのが悲しい。レディオヘッドなど問題外なのだということがよく理解できる。それはなぜか。ようは、腰が据わったコード進行として鳴っている作品でないと僕は本当に嫌だった。

ニールヤングの曲をいつ聴いてみても、英語自体で歌っているようにはきこえないときがある。そういったことが、彼の聴いている楽曲群からは一貫して感じ取られた。長渕剛の曲が綺麗な日本語としてはきこえてこないという現象と酷似している。彼は、洋楽の中でも、日本的なメロディをもつバンドの曲ばかりを選んで聴いていたのである。それは、90年代を境にして、まっとうなスタイルを持った音楽自体をめったに耳にすることができなくなってしまったからだからかもしれない。


散文(批評随筆小説等) 下痢になっては書けないから Copyright 番田  2012-03-09 01:17:01
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