なのりそ
そらの珊瑚

うららかな日でございました

春まだ浅い
やわらかな陽光が
鏡のような海の面を
無数にきらめいていく
穏やかな日和に
お嬢様は嫁がれていかれました
でも
その胸中はいかばかりか
真白な花嫁衣装からは
透けて見えるのは
全てを断ち切って
旅立たれる哀しみに似た決意のような
ものだったのではないかと思います

お嬢様のことは
何でも知っているつもりです
この家の門前に捨てられていた
赤子だった私を
何かの縁だとおっしゃって
育ててくれたのは
お嬢様の父上でした
幸、と名付けて下さったのも
だんなさまだと聞いております
幸薄い人生の始まりに
せめて名だけは、と
思われたのかもしれませんね

私が五つの時でした
お嬢様がお生まれになったのは
天使という形容がぴったりの
あとにも先にも
あのような愛くるしさに
私は出会ったことがありません
それから十八年
私はお嬢様の身の周りのお世話を
させていただきながら
この浜を庭として
共に大きくなったのでした

幼少期から
たいそうお可愛らしかったお嬢様は
年頃になるころは
袖を通した衣からも
透けてみえるような
美しさだと
近辺の方々から
袖衣姫そとおりひめ
噂されていました

伯爵家といえども
内情は火の車
あとは
お嬢様の縁組で
家をつなぐしかない
という
切羽詰ったところまで
きておりました
お相手は炭鉱をいくつも経営するお方
ニューリッチ まあ、いわば成金ですわね
年は三十も上で
しかも後添いに望まれたと伺っております
むこうさまは 名がほしい
こちらはお金がほしい
見事にその利が一致したのでございます


私は
知っておりました
お嬢様の心の想い人は
村の貧しい漁師でございました
お小さい頃は
浜辺に出て
桜貝を拾っては
三人でよく遊んだものです
もっとも私は
お嬢様のあとを
日傘を振りかざし
息を切らして追うのが常でした
透けるように白い肌は
とても弱くていらっしゃって
私は 赤く焼けてはしまわないか
それだけを心配しておりました

「幸よ、一度でよいのじゃ。あの方との想い出が欲しい」
私はお嬢様のたった一夜の恋の手引きをいたしました
浜にある苫屋にて、お二人は結ばれたのです
翌日
浜には なのりそ が打ち上げられておりました

なのりそ
決して名乗ってはなりません
けれど
名乗らなくても
若い漁師にはわかっていたことと思います
漁師は
生涯独身を通したそうです

叶わぬ恋を断ち切るように
お嬢様は
嫁いでいかれました
それから
しばらくのちに
元気な男児をお産みになられましたが、
産後の肥立ちが悪く
お子の成長を見ることもなく
お嬢様はあっけなく亡くなられてしまわれました
あのお子は
もしかすると といらぬ心配が
頭の中をよぎりましたが
たとえ
そうであっても
なのりそ(名告り そ)
名乗ることは永遠に叶いません

あれから半世紀がたつのですねえ
いささか
私は年を取りすぎました
昔話は
退屈ではございませんか?
そういえば
あなたさまは
お嬢様に面差しがよく似ていらっしゃること
男の方にしてはお優しい……
他人のそら似とは
よく言ったものですわね
年寄りの戯言と思って
どうかお聞き流してくださいませ

あら、泣いていらっしゃるのですか?
なぜに、どうして、
などと無粋なことは
聞かないほうがよろしいわね
ああ
あれは千鳥です
かわいいでしょう
磯ではぐれた
母を探しているのかもしれませんね


いつのまにか
この浜は
春になると
それは上等な なのりそ が
採れるようになりました

春になれば
それらは海の中で
無数の黄色い命の花を咲かせるのです
あれも
人に言ってはいけない恋なのでございましょうか

なのりそ
それを口にするたびに
今でも
胸の奥が切なくなるのです

うららかな日でございますね
あの日のように

人はうつろいを生きていますが
この浜は この海は なのりそ は
何ひとつ
変わっていないように
思います



自由詩 なのりそ Copyright そらの珊瑚 2012-03-08 08:09:52
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