すばる
木屋 亞万

夜、気持ちよく眠っていると虫の羽音がして目が覚めた。反射的に手で音を払うと、すぐに声がした。「小生はあやしいものではありません。虫であります」とその声は言った。自分から虫というからには虫なのだろうなと僕は思った。
「ちょうどあなたの小指の爪くらいの大きさのテントウムシにございます。赤い背中に七つの星が描かれております。それゆえに小生はナナホシテントウと人間に呼ばれているようでございます」
ナナホシテントウなら僕も知っている。それよりも気になるのは、「しょうせい、ショウセイって言ってるけどどういう意味?」ということの方だった。彼は「小生は小さな生き物ゆえ、小生と名乗っているのでございます」と答えた。微笑むように暗闇の中で、羽根を小刻みに振るわせたのがわかった。
「小生って、名前なんだ」と思ってつぶやいたら、名前は「すばる」だと答えた。
「僕と同じ名前だ」と驚いていると、「だから小生とあなたは話ができるのでございますよ」と言って、またブブッと羽音を出した。そういう癖なのかもしれない。
 「今日から啓蟄にございます。虫が動き出すのにとても良い日和です。冬は終わりついに春がやってくるのでございます。小生も巣穴を這い出し、あなたの元へやってきたのでございます」
「君は僕のところへ何しにやってきたんだい」
「生暖かい春一番の夜に、あなたとちょっとお話がしたくなりましてね」
それならばまず電気をつけようと起き上がったら、彼は慌てて「このままでようございます」と言った。僕は慌ててもとの姿勢に戻り、ゆっくりと頭を枕に戻した。
「暗闇であなたに下手に動かれると小生が踏み潰されてしまうやもしれません」「あなたが思うよりもあなたは巨大な生き物で、小生はあなたがうっかり踏み潰してしまえるほどに小さな生き物なのでございます」
 僕はそれで妙に緊張してしまって、肩や首にぐっと力が入ってしまった。それまでだってあまり動いていなかったのに、急に動かないでいることが窮屈に感じ始めたのだ。
「ああ、それで話は変わりますが、あなた。いま恋はしておられますか?小生は恋のナナホシテントウと呼ばれておりまして、恋の伝道師のお仕事もしておるのですよ」
返答に困って目を閉じていると、彼は絶え間なく羽根を動かすように、すごい速度でたくさんの言葉を僕に投げかけてきた。耳で聞き口で話すのは人間同士の会話のときだけで、虫と人が話すときは虫の出す声をどこか他の器官で受け止めているのだと僕は気付いた。とてもじゃないが、このテントウムシの羽音を耳で拾っていたのでは、人ごみの会話をすべて耳で聞き取ろうとするくらいに無謀だ。彼の羽音がすべて言葉であり、それは時に折り重なり、時には一つの音の団子となって、僕にメッセージとして送りこまれてくるのだった。彼はもしかすると僕の中に入り込んで、直接メッセージを身体に流し込んできているのかもしれない。そのようなことを思っていると、テントウムシの恋愛講座が始まった。
「えー僭越ながら、小生が恋についてあなた様に説明させていただきます。あなた様は生涯に七人の女神と出会うようになっているのでございます。そうちょうどプレイアデスの七姉妹のような、お美しいお相手とめぐり合う宿命になっているのでございますよ。その七人とあなたは結ばれる運命を互いに共有しております。つまりあなたの運命の七人は、相手にとってもあなたが運命の男性である場合がほとんどです。ただし相手の女性にも相応の数の運命のお相手がいるわけですから、先に他と結ばれていればあなたとは不適合ということになります。まあ仲良くはなれるかもしれませんがね。運命というものはめぐり合わせにより、どのようにでも運びうるものですから。迷える白雪姫にとって七人の小人は、出会った時点では間違いなくただの小人だったのでございます。けれども、そのうちの誰かと深い関係を築いていくことによって、その姫にとって人生を左右しかねないおおきな人間に成長していくこともまた十分にありうるわけでございます。まあ姫は結局、王子様とくっついてしまうのですがね」ブブッ「まあその七人が必ずしも恋人になるとは限らず、一生涯の友になることもあれば、よき上司と部下、あるいは師と弟子、因縁のライバル、腐れ縁、あるいは関係の深さゆえに殺しあうものさえいるくらいであります。あなたさまも三と六の齢を重ね九つの啓蟄の時期を迎えたのでありますから。ああ、啓蟄は暦でいうと三月六日頃なので、人間の場合だとちょうど九歳の頃がその時期となるのでございますよ。いやここは屁理屈なので適当に聞き流してくださいまし。とにもかくにもあなたさまの春の始まりにございます。人間の春というのは恋の季節。それも成熟しきっていない青い春にございます。あなたさまもぼちぼち思春期でございましょう。朝に股間のあたりがむずむずしたり、あそこやあちらにちろりと毛が生えてきたりする日も近うございましょうねえ。ええ」ブブブブッ「そこでこのナナホシテントウが、恋の指南役として参ったのでございます。気になる相手はおられますかな。あなたがたの年の頃は女の子の方が成長が早く、心身ともに抜かされ気味でございますが、そのような女子に見下ろされ、時に身体的に虐げられながら何ともいえぬ恍惚に身を震わせたり、膨らみ始めた胸や女の匂いにどきりとすることもございましょうて。ええわかっております。」ブブッブブブブッ「いや小生が今日参ったのはですね。早くも小生の背中の星が二つも反応を示しているからにございます。これは早いです。あなたは、非常に早熟なお子様にございますね。七人のうち二人と、齢一桁の終わりに差し掛かろうという段階で既に出会ってしまわれるとは、かなり早い方にございます。中には全員と出会いきる前に脱落してしまう者や、婚姻の契約をしても真に心身の結ばれることの無い相手との毒にも薬にもならぬ関係にはまりこんでしまう者もおるのでございます。それを考えるとあなた様の早さは評価に値します。「巧遅は拙速に如かず」とはよく言ったものです。で、誰なのです?と聞きたいところですが、小生は恋の伝道師ゆえ聞かずともわかってしまうのでございます。少々お待ちくだされ、いま調べてごらんに入れます」
引っ切り無しに話していたテントウムシがついに黙った。僕は少しホッとして、元々閉じていた瞼の奥で、きゅっと引き締めていた意識を解いた。その虫はディスクを読み込む機械のようにブブッブブッと小刻みに羽根を震わせてはいるが、ついに何も話さなくなった。緊張を解いたら、生暖かい空気が部屋全体にふわりと降りてきていることに気付いた。網戸にしてある窓から、雨上がりの春の空気が風に乗って入ってきたのだろう。
「むむ、わかりましたぞ。あなた様の恋のお相手は、意外や意外、担任の女教師にございますね。これは早熟な上に年上好みですな。熟女というにはまだ若いですが、あなたのお母様とさして齢の違わぬ女性です。すでに結婚をして子どももおられる。これは発展しようがありませんな、幸先が良いのか悪いのかよくわからないお方だ。美しくやさしく器量に溢れた女性ですから、良いお相手であるのは間違いないのですが、彼女から観たあなたがどのように映っているのかも興味がありますな。」ブブッ「む、これはやはり互いに恋愛感情というわけではなさそうですな。擬似的な母子関係といったところでしょうか。」ブブブッ「おお、あなたは何度かこの先生をお母さんと呼び間違えておりますな。恥ずかしい限りですが、それもまた若さゆえの過ちというものです。しかし、成熟した女性としてドキリとする場面にも結構な頻度で出くわしておられますな。背中から透けるブラジャー、ジャージ姿のときの下着のライン、前かがみになった時の胸の谷間。あなたは、小生が思った以上に良い素質を持っているように思えますな」ブブブブッ
「二人目は平凡。実によくある母親への慕情ですか。一人っ子のあなたの場合、最も近いところにいる女性ですからね。まあ仕方のないことです。順番的にはこちらが先でしょうな。初恋はこちらというわけです。いずれ初恋について回想しながら語る日も来るであろうことは容易に想像できますが、そのときは胸を張って母親だと言ってあげなさいな。それでこそ立派なマザコンというものでございましょう。この母親への恋慕が基礎となって、女教師への恋心へと発展したのでございますな。なあに、少し茶化しましたが、よくあることなのですよ。エディプスコンプレックスと言って、別に珍しいことではないのです。ええオイディプスのように父親を殺したり、実際に母親と結ばれたりするわけではないので、ご心配なさらずに」ブーブブッ
「意外といえば意外でしたが、まあ平凡の範囲内でしたな。また次の恋が訪れましたら、お目にかかることもあるやもしれません」と、唐突に虫が別れの挨拶をし始めた。僕はもう耳以外はすっかり眠りについていて、閉じた両目は夢の風景を覗き見し始めている。
「あとこれは可能な限りで良いのですが。不注意で虫を踏まないように意識して、これからも暮らすようにしてくださいな。そうすればたとえあなたが地獄に落ちたとしても、天から虫の助けが降ってくるというものですよ」
翌朝、目が覚めると、虫がいた気配は部屋に微塵も感じられなかった。何か目印をと思い「虫の報せは春に届く」というメモを机に貼り付けて置くことにした。次はもう少し月夜の明るい晩に来ればいい。そうすればもう少し、起きた頭で虫の顔を見ながら話が聞けるというものだ。次こそは本当に恋愛をできる相手が女神であれば良いなと思いながら、すばるはそっと部屋を出た。


自由詩 すばる Copyright 木屋 亞万 2012-03-06 23:17:17
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