言葉との戯れ−英語学習のこと−
深水遊脚

 月一回の古新聞の回収に向けて、必要なものをより分けてそれ以外を束にして収集所に出す作業に追われていた。どうにも捨てにくいのが、週一回配達される英語学習用の英字紙(※1)だ。英語そのものにずっと関心があり、学生時代から今に至るまでズルズルと取り続けている。特に世界のどこかを取材した紀行文が写真をふんだんに盛り込んで見開きで掲載されているページが大好きで、言葉を厳密に読み込むというより写真に見入ってイメージを膨らませるような読み方をしている。先月バックナンバーをスクラップしたが、ほぼ地球上の全域を網羅しているのではないかと思う。そのうちどれか1箇所でも気軽に行けるような身分ではないのだけれど、その土地に関する想像を膨らませて言葉を追っていると、学習という固いイメージから解放されて想像上の旅をすることができる。安上がりの娯楽だと思う。ほかにも、人生相談のページは見ていて楽しいし、身の上を表現するうえで使われる様々な言葉を知ることが出来る。悩みやトラブルの種は言葉は違えどどこも同じと見えて、案外共感しやすいものばかりなので、言葉とイメージは非常に結びつきやすく、これもいい勉強になる。本当は覚えた先からどんどん捨ててゆけばいいのだろうけれど、紀行文や人生相談などの記事に対する私の関心は、コレクターのそれに近いのだと思う。ファイリングしていくことに生きがいすら覚えている。

 「ズルズルと取り続けている」と書いたとおり、私の英語学習については、誇らしげに語る何ものもない。何かを継続するには致命的な、熱しやすく醒めやすい、しかも移り気で飽きっぽい性格が災いして、いまなお一向にモノになる気がしない。そのくせ好奇心だけは膨らむばかりだ。きっと英語を使うシーンにそれほど関心はなく、言葉とそれにまつわる人の心の動きに、キリのない関心を抱き続けてきたのだろうと思う。だからしょっちゅう横道にそれるし積み重ならない。週1回の英語学習用の英字紙がそんな私にフィットしているのは、皮肉なことかもしれない。実用的な関心から勉強したのは大学受験くらいだろう。そこでさえ、模擬試験かなんかで出会ったチャーチルの幼少の頃の話が不思議といつまでも頭のなかに残っていたり、Choose Your Poison! と書かれたタバコの広告(?)の見出しの文言を訳させる英訳の問題に出会い、「毒は選んで飲めよ!」という模範解答が気に入らないなあ、かといって「毒を選べ!」という直訳も違うし・・・・・・とずっと思い続けていたり。つまるところ言葉そのものに対する興味でしかなかったのだろうと思う(今の私なら「お気に入りの毒を選んでね!」と訳すかな)。

 その英字紙とは別の、新聞の特集(※2)のなかで「グロービッシュ」という言葉に出会った。英語を母語としない人同士の実用的なコミュニケーションを可能にする英語をこう名づけたらしい。1500語の基本単語とその派生語でできており、文は短く、受け身はできるだけ使わない、などのルールがある。特集紙面にグロービッシュの提唱者ジャンポール・ネリエールに対するインタビューが載っているが、彼曰く「グロービッシュはシェークスピアを楽しむには十分でないが、トヨタと契約を結ぶには十分だ。それ以上の英語は多すぎる」。また曰く「私の理想は、人びとがそれぞれの母国語を話し、制限はあるものの「十分」な英語を話すこと。余った時間で、スペイン語、イタリア語、中国語など別の文化を学ぶ。グロービッシュを話すことで、英語による文化的な侵略から自分たちの文化を守ることができる。」(※3)


 英語を手段として割り切り、必要以上のものは学ばないというグロービッシュの考え方は、英語学習のキリのなさから脱出する方法としてはいいかもしれない。言葉には文化がピッタリとくっついている。文化といっても昔のこととは限らない。言葉に纏わる人と人との関わりのあらゆるシーンで起こる不思議なこと、気持ちいいと感じたり、不快に思ったり、他人とうまく行ったり行かなかったりすること、それを引き起こすものが文化なのだろうと思う。言葉を完璧に操ること、完璧に理解することを求めればそうした文化まで丸ごと学ぶことを目指すことになってしまう。もとよりそれは不可能だろう。母語である日本語でさえも難しい。現に人間関係から言葉のみを抽出したネット上のやり取りでその難しさが身にしみている。ネット上でなければ知り合うことのなかった人たちと言葉を交わし、互いの考えを表明しあうことのメリットは大きいと思う。そこから触発されたいろんなことが私の実生活での考え方、振る舞い方、人との関わり方を形作っているのは本当だ。でもデメリットから目をそらすわけにはいかない。ネット上で誤解がもとになって深刻なトラブルに発展することはほぼ100%の人が経験することではないか。言葉だけのやりとりは、単純に「人間関係から言葉のみを抽出した」ものではなく、気持ちを伝えるために言葉を効果的に使うテクニックが生成され、増殖される場でもある。嘘もあり、皮肉もあり、それがもとで疑心暗鬼にもなる。公的なメディアでは規制されるような暴力的な言葉、異なる立場に配慮を欠いた言葉も、感情の昂ぶりと同時に発信され、それがもとで誰かが深刻なダメージを受けることもある。これら一連のことも、ある種の文化なのかも知れず、その文化を理解するすべを身につけることが、自身を守るために必要になる。もっともこれは、ネットだけに限らないのだろう。言葉が複雑に発展してきており、文化も含めてきちんと学ぼうとすれば母語である日本語ですら複雑怪奇なものだ。母語でない英語となれば、細部の複雑怪奇さにたどり着く前に、あちらでは説明不要であたりまえのいろんなことを学ぶ必要がある。そういうキリのない学習に深くはまり込む前に、どこかで線を引く発想は必ず必要になる。線を引く方法として、これだけ知ってあとは工夫で乗り切るという1500語のコミュニケーションは、目安としてよいかもしれない。

 必要最低限の1500語といっても、1500語でいいんだ、という軽い気持ちになるのはよしたほうがいいと、言葉と戯れる気分屋の私は直感的に考えている。ためしに1500語のうち何でもいいから手ごろな学習用の英和辞典、英英辞典で調べてみるとすぐにわかる。have,take,get,give,likeなどの基本語にどれだけの分量の語義の説明があるか。どれだけ多様な意味、言い回しがあるか。どれだけ多くの例文があるか。基本語だからこそ操るのは難しいのだろうと思う。それでもきっと、言葉以外の何か、たとえば明るい笑顔だったり、テキパキした行動だったり、あるいは人の話をよく聞き、理解しようとする姿勢だったり、そういった言葉以外の部分が意外に大事だったりするので、こだわり過ぎる必要はないのだろう。トラブルに遭遇しないため、損失を出さないためのディフェンスは固めるに越したことはないが、そうしたことは自分で何もかも背負うより、警察や裁判所や大使館など頼るべきところにいかにして頼るかを考えて準備するのがよいのだろう。そうして考えると、細部に深入りするメリットはなく、目的に沿って学ぶべき範囲をきちんと定めて、その範囲のことをしっかり身につけるという考え方は理にかなっている。

 その一方で外国人が日本の文化、たとえばお風呂の入り方、バスタブのお湯を温めなおすために進化したハイテク機器が喋ることだったり、幼児が牛はモーモー、車はブーブーと言うこと、犬はワン、鶏はコケコッコーと鳴くと表現されることだったり、そうしたことに新鮮な驚きをもって語ってくれることが、何となく嬉しかったりもする。この何となく嬉しい、というのが意外と大切ではないかと思う。興味をもたれると何となく親しみがわく。親しみがわくのは、その人が日本の習慣について知っていたからだけではなく、私が当たり前のこととして関心を払わなかった物事に、その人が興味をもって新鮮な驚きとともに語ってくれたことで、私がその人の考え方、感じ方に興味をもったからなのだと思う。好奇心からごく自然に知りたいという気持ちが膨らみ、人に会ったときにそれがこぼれ出る、というのがいいのだと思う。お互いにそんな気持ちを交換しあうような出会いはきっと楽しい。その先の付き合いも楽しいものになるだろう。出会い方、付き合い方が楽しいと、きっといろんなことがうまく行く。私が言葉に纏わるいろいろなことにこだわるのは、その楽しさを求めてのことなのだと思う。






(※1)Asahi Weekly という英字紙です。

(※2)朝日新聞の隔週の特集紙面「朝日新聞グローブ」の、3月4日発行分です。特集のタイトルは"Is English taking over the world?" でした。

(※3)「スペイン語、イタリア語、中国語」の例示を「文化」で受けている部分は意味が通りにくいのですが、きっとこれは翻訳の問題でしょう。余った時間で学ぶものが別の言語なのか、別の言語に纏わる文化的なものなのか、あるいは英語圏以外の人の自国の文化なのか、そこが厳密に語られていないために翻訳の際にこのように曖昧になったと思われます。ひとまずそのまま引用することにしました。


散文(批評随筆小説等) 言葉との戯れ−英語学習のこと− Copyright 深水遊脚 2012-03-05 15:19:39
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