読まれる行為とは
アラガイs


悪意とは作為的である。
作為的な悪意とは相手を貶めようと企むことである 。
これが詩に置き換えられたらどうだろう 。たまに特定の人物を揶揄したような語りを見受けられるが、これが作者に近い肉親や兄弟、或いは友人に対してのものならどうだろう。描かれている周辺を知りえない第三者にとって、当然揶揄として身近には感じられない 。作者自身もわざわざ比喩を用いて作品にする必要はないのである。それは作者自身のこころの葛藤または叫びとなって、直接メッセージへと昇華され置き換えられるだろう。
ことばの揶揄とは皮肉であり、それは隠蔽を装う嘲笑でもある 。
悪意とは、それがあからさまに誰しもがそれと知り得る特定に向けられるとき、揶揄を超えた作為的な妬みとなって自らを貶めるものである 。

直感的思考力とは各々が持ちあわせる基準、その物差しによって計られなければならない 。 「芸術とは脱個性化の過程に他ならない」と言ったT,S エリオットも、触媒作用に於ける化学反応を用いて、知識や感情の創造をより新しい個性と結びつける。
元々が個であり、発想の基準が違う相手に対して、意見を言う行為とは勇気を伴うものである。受け取る相手も当然、その違いを考慮に認識される 。感情の縺れ とは、そうした交換作用が一方的に偏ったり、相手の意図を汲み違えたりしたときに誤解が生じてしまう 。これが、ときに詩の誤読となって相手を傷つけたり、または悪意と結びつけて怒りの矛先は意見者に向けられる。突然にコミュニケーションの怖さを思い知らされる。そして二度と交換することもなく去ることになるだろう。繰返し行為された、顔の見えないサイトの宿命でもある。これは、受け取る側の読みもまた試されているのではなかろうか 。

感情の縺れを憂慮するひと。沈黙し或いは無視をする 。相対的に関心すらみせない一方的な置き詩 。何れも読まれるのを前提として、置かれるのである 。
わたしは性格上レス者に対して沈黙はできない 。とりわけコミュニケーションを求めているわけでもない 。
なのによくレスを上げる。これは自身の楽しみに過ぎない 。相手を思う創造する楽しみでもある。
ここは詩のサイトだ。発表し高めあう場だ。しかし辛辣な罵倒以外コミュニケーションは程度許されている。詩人とは、より多くの懊悩を抱えこむもの 。 ときには逸脱した様な冗談。ユーモアとはそうした空漠の澱に集う者の一縷な光ではないのか 。
悪意とは何か、受け取る側の資質もまた試されているのである 。








散文(批評随筆小説等) 読まれる行為とは Copyright アラガイs 2012-03-03 15:36:54
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