そのことは眠りの程度とはまるで関係が無い
ホロウ・シカエルボク
いったい何をすれば満足出来るのか?君の脳髄は深い迷宮の奥まで入り込んでしまったようだ、いままでのやりかた、いままでのやり方の全てが今の君に対してノーと言っている。きみはその通告の前でずっと考えている、それを真に受けてまったく新しいやり方を試してみるべきか、それともまったく無視をしてこれまで通りにしてきたことを貫き通すのみか。もとより、やりかたなどその都度選んでいくことが正解であるべきで、流動的な信念とでも名付けられそうなそんなものを飼いならすことが出来れば一番いいのだ。いったい何をすれば満足出来るのか?今週に入って君は体調を崩してしまった、君の身体にはいま風邪薬が溶け込んでいて、あまり丁寧にものを考えることが出来ない。それなのに君はこうしてワードの前で何かを考えようとしている。君の表現はもう随分前から、思考の領域だけでは納得しない状態で走り続けている。統制されたものに君は魅力を感じない、易々と言語化出来るものであるのなら、わざわざ表現の領域に持ち込むことはないと考えている、いったい何をすれば満足出来るのか?君はちょっと異常に思えるほど貪欲だ、書きなぐられたものがすべて、ぶるぶるっとした震えを呼び起こすものでなければならないと考えている節がある、もちろん上っ面ではそんなことにこだわってないような風を装っているけれど。君はちょっと異常に思えるほど貪欲だ、その証拠に、もっとも良いとされる並のやり方では良しと思ったことが無い。スタンダードの継承というのは形式のそれではなく、スピリットのそれであるべきだ、形式を受け継ぐのが好きなら難しい漢字の書き取りでもして悦に入っていればいい、誰もそんなことに注意を払いはしない。受け継がれてきたもののたいていが間違っているのは、その形式を守り続けていれば継承したことになると思っている点だ、馬鹿げている。君の人生においてもスタイルの摸索というものはあった、だけど振り返って考えてみればそれは「定めない」というその一点において統一されていたような気がする。それはスピリットとして統一されていたのだ、本当はそういうものこそがスタイルと呼ばれるべきものだ。君はなんだか言葉遊びをしているだけのような気分になってくる、いったい何をすれば満足出来るのか?ひとつのことを語るために幾千もの言葉を、幾千もの文章を費やさなければならない。それが最も直接的な表現であり、簡潔な表現でなければならない。世界に散らばるあらゆるもののすべては欠片に過ぎない、仮にそれらを懸命に掻き集めて繋いでみたところでひとつのまとまった何かになることはない。それらは永遠にまとまることのない欠片なのだ。そんなものを語る時にフォーカスを定める必要などない、それは花瓶に活けられた花のようなものだ、美しく、完成されているが、植物としての本当はほとんどない。嘘をつくことが本当だと言うならそれもありだと思うけれど。いったい何をすれば満足出来るのか?思考のままならない日にデスクトップの画面にしがみついてまで、君はいったい何をしようとしているのか?深夜だ、ままならない深夜だ、窓の外では雨の音がしている、雨は降っているのに冷たさはない、雨は降っているのに冷たさはないんだ、雨の降る音にリズムを捉えることも、あるいは捉えないことも、どちらも本当だ。雨は雨だ。どちらかにしたい人間の考えることは君には判らない。君は非常に個人的な人間だ、利己的とも自己的とも違う、非常に個人的な人間だ、君は、だけど、ある一定の間隔を置いて、時々そのボーダーを越えようとする、そこにはそうするだけの理由がある、でもそれがなんなのかは君には判ることはない、ただその領域にあまりこだわることはないということだけが判ってきたくらいで。それは多分君が本来そうあるべきだと捉えているスタイルの在り方と似ているのだろう。結局のところ、ひとは自分のためだけにしか生きることは出来ない。個人というのはメロディのようなものだ、それに関わるものたちがアレンジメントや楽器の役割を果たす。君はそれをメロディだと思わなかったことはなかった。いつもどこかでそう信じていたはずだ。だからいまこうして言葉になったのだ。君は若いうちはうまく歌うことが出来なかった。アレンジによって壊されたり、似合わない楽器を当てはめられたりしてアンバランスなアンサンブルを強要された。だけど長い時間をかけて君はそれなりのメロディを作り上げてきた、気の利いたアレンジや豊かなプレイヤーも時々現れた。そして君はいったい何をすれば満足出来るのか?時により君のメロディは、長いブレイクを強要されるかもしれない。だけど勇み足をして、おかしなタイミングで音を鳴らしたりしてはいけない。君は昔よりやり方を心得ている、たぶん満足をずっと先送りにしていくことが、君が本当にやりたいことなんだろう。さて、そろそろ眠れ。