眠らない街の眠らない人々
ブライアン
仕事が遅くなった。金曜日の夜の電車は酒臭かった。渋谷始発の電車に乗り、席に座った。いつもならすぐに眠りに落ちるのだが、あまりに瞼が重くて眠れなかった。目をこすっても瞼の重みは消えない。隣に座った大柄な男は、いびきをかいて寝ていた。両手は両脇にだらんとしている。アルコールのにおいが鼾からした。
車内アナウンスは、出発が遅れることを伝える。扉側に寄り掛かって話し込んでいた男女の二人組は、忌々しそうに、待っている必要なんかないよ、と言った。地下鉄のホームへ降りる階段を走る群衆の音が聞こえる。二人組は窓側から中央へ押し込まれ、男のほうが女のほうの腰に手を回した。女は、お酒臭い、と言った。
正面のつり革に手を支えて立ったスーツを着た男が、携帯電話を取り出して何か操作をしていた。つり革に持たれた腕に頭を乗せている。スーツは紺色だった。男は片目をつむり携帯電話から目を離した。
いつもより電車はゆっくりに感じた。電車が揺れるたび、立っている人の体が揺れた。話をする人の声が一つの塊になる。電車のガタンゴトン、という音と一緒になって、意味を失ってしまう。耳を澄まして意味を取り出そうとはしない。周囲に漂うアルコールの匂いが、騒々しさを静けさに変えてしまう。真っ暗な夜、田んぼの真ん中に立っているようだ。蛙の声は騒々しいが静けさそのものだ。川が流れているが、蛙の声でかき消されてしまう。時に、蛙の声は息継ぎのために弱々しくなる。そのとき、川の流れが聞こえてくる。肥料のにおいが鼻につく。足の裏に重力を感じる。まっすぐ、下に縛り付けようとする、強い力だ。目をつむり、呼吸を整えよう。肥料の匂いが肺に満ちてくる。騒々しい声。けれど匂いが、声を空気に変えてしまう。吸い込み、吐き出す。
電車はようやく最初の駅に停まった。多くの人が降りた。詰め込まれていた人が肩の力を抜いたのがわかる。身近な人との距離が少し開き、お互いの顔を見れるようになる。腰に回したてもほどかれている。女は、男の顔を見てさっきまで話していたことの続きを話し出す。男は電車から流れ出ていく人を目で追っていた。
再び電車の扉が閉まり走り出した。話をしている人はわずかだった。車内の蛍光灯がまぶしく光っていた。椅子に座った人のほとんどが眠りに落ちていた。さっきまで目の前に立っていた男はもういなかった。さっきの駅で降りたのだろう。彼は携帯電話をカバンに入れて、颯爽と改札を抜けたに違いない。結婚なんてなんでするの、と尋ねる。彼の友人は困ったように奥さんになった人に視線を合わせる。彼は無邪気そのものだ。友人は奥さんの顔を見てもっと困ってしまうだろう。彼女もまた彼の友人にその答えを求めていた。だが、望んでいる意味は彼とは違うものだ。なんて答えるべきだろう。
隣に座った男の鼾が強くなる。さっきまで折りたためられていた足も放り出されていた。ほとんど会話の声は聞こえない。駅で降りた乗客たちの声のほうがよく聞こえる。改札を抜ける声。待ち合わせていた人が出迎えてくれる声。一人で黙々と家路に帰る足音。電車はガタンゴトンと音を立てている。アルコールの匂いも変わらない。けれどもう騒々しくはなかった。
閉まりかけの扉をこじ開けるようにして一人の男が電車に乗ってきた。男は空いた電車の中を見回すと、すぐ近くの椅子に腰かけた。電車が走り出す。男はおもむろに立ち上がった。起きていた乗客のすべてが彼のほうに目を向ける。男は扉の隅にしゃがみこみ、嗚咽を出した。電車の床には白い嘔吐物がある。男はなおも吐いた。アルコールのにおいが充満する。酸っぱい鼻につく匂いだった。
その光景を見ていた乗客はみな嫌な顔をしたが、声を出す者はいなかった。一人だけ椅子から立ち上がり、隣の車両へ移った。それ以外の人は何事もなかったかのような顔で目をつむった。吐いた男は次の駅で降りた。嘔吐物だけは残された。
気が付くと隣に座っていた男はいつの間にかいなかった。寝ていたわけではない。ずっと嘔吐物を見ていた。友人の結婚式の二次会で女の子に吐いたことを思い出していた。散々なことを言われた。でも何も覚えてはいない。きっととてもきれいな女の子だったに違いない。彼女は、知りもしない男の嘔吐にまみれて、怒りをあらわにすることしかできなかった。取り残されて、気が付いた時には道路で寝ていた。真っ暗な田んぼの真ん中で蛙の声を聴いていた。夏の湿った空気が肌に触れる。蚊の飛ぶ音が耳元でしていた。畦道の草が鼻元に触れる。酸っぱいにおいがした。青春は酸っぱいだけだ。
隣で寝ていた男は、終着駅の三つ前の駅で降りたに違いない。そこは住宅地で、夜遅くまでスーパーををやっている。蛍光灯にともされたスーパーの店内をアルコールのにおいを携え、男は弁当を探す。まだ眠い。目がうまく開かない。男は迷わず惣菜売り場へ向かい、弁当を手に取る。売り場にはほとんど商品はない。
男が店を出ると街が静かのことに気が付く。いつも見ている街なのに、と男は思う。年を取って情緒的になったのかもしれない、と。肩幅が広く背中の大きい彼は、見るからに土建関係の仕事をしている。顔も厳つく、近寄りがたい。男は自分の風貌を知っていた。骨ばった顔を両手で挟み強くたたく。音が街に響く。周囲のマンションの窓にはまばらではあったが、まだ明かりがともっていた。まだみんな寝てはいない。男は弁当の入ったビニール袋を手で持ち、歩き出す。家に帰ってからしなければいけないことを考えていた。
電車は終着駅まで来た。最寄駅まで行く電車はすでに終わっていた。終着駅でバスに乗り換える。バスは多くの人を乗せていた。出発の時間になっても乗客を希望する人の数は減らなかった。運転手は後方の扉を開き、乗客を後ろの扉から乗せた。ぎりぎりまで乗ると、外にいるバス会社の人に限界であることを告げる。バス会社の人は乗車を希望する人に、次のバスに乗ってください、と告げる。ようやくバスは出発した。若い3人組の男性が走り出したバスに駆け寄ってくる。おそらく大学生だろう。彼らはゆっくりと走り始めたバスの扉を強くたたいた。運転手は扉を開ける。次のバスに乗って、と強い口調で諭す。
真っ暗な街だ。バスから人の群れが光の消えた街へと散り散りになる。バスの発射する音が聞こえる。街は眠っていた。けれど人は眠らない。国道246号線には車が行き交っていた。車のランプが連なり、道を照らしている。バスから降りた人はタクシーを捕まえようと、手を挙げる。タクシーはその人の前まで車を動かし、停まる。彼女は後部座席に入り、行先を伝える。タクシーは走り出す。国道246号線を横切り、光から離れていく。道沿いにはコンビニエンスストアが何件かある。彼女は店内の光を目で追う。タクシーが止まり、支払いを済ませる。タクシーが走り出すと、何の音もしない。どこまでもタクシーのエンジン音だけが聞こえていた。彼女は鍵を取出し、マンションの扉を開く。真っ暗な部屋。テレビをつけないと、何の音も聞こえてこない。
高架橋の下を歩く。車の音が騒々しかった。24時間じゃないコンビニエンスストアの看板が見える。すでに光は消されている。空気がとても冷たい。橋を渡ると、川の流れる音がした。だがすぐに車の男のほうが強くなった。川の音が聞こえたのはわずかな時間だけだった。
国道を照らす橙色の光が夜に浮かんでいる。マンションの窓からこぼれる光は弱々しい。もう、みんな眠りにつこうとしていた。空気は透明よりも鈍色をしていて、汚く、酸っぱい。洗濯物は外に干したくないのよ、と主婦たちはいう。でもね、とせんべいをかじる。外に干さないと乾かないじゃない、と。
この国はよく雨が降る。でもコンクリートに囲まれた街では、すぐに乾いてしまう。乾いたアスファルトを車が走る。トラック、バス、タクシー。眠らない街の眠らない人々。誰もいなくなったとき、ラジオをつけるだろう。両手を真上に伸ばし、あくびをする。吸い込まれる空気は透明より鈍色をしていたとしても構わない。あくびで出た涙を乾かしてくれるのだから。