ぬるい風
壮佑


 よく晴れた夏の日の朝、私は海岸沿いを走る電車のシート
に座っていた。ふいに砂浜のぬるい風が窓から吹き込んでく
ると、私が飲み干したペットボトルの中に、しゅるしゅると
渦を巻きながら吸い込まれてゆく。そのとき私はもう少しで
喃語を喋りかけたが、ペットボトルの中で魚の鱗がキラッと
輝くのが見えたので、あわてて蓋をした。

 ペットボトルはたちまち風船のように膨らんできた。身を
離して見ていると、終いにはパーンと破裂して、一瞬の間あ
たりには何も見えなくなった。気が付いたら電車は何の変わ
りもなく進んでいる。しかし窓の外は海の底になり、海藻が
揺れる珊瑚の周りを魚が泳いでいる。私はまたも喃語を喋り
かけたが、もう少しのところで舌が裏返ってしまった
                   
 ペットボトルから飛び散ったぬるい風は、白い泡の群れに
なって電車の窓から飛び出し、海中を遠ざかって行った。と
思ったらすぐに戻ってきて、私から素早く喃語を奪い取ると、
海面を目指し一目散に上昇してゆく。私はあわてて車両から
潜望鏡を出して覗いてみたが、たちまち魚の群れが潜望鏡に
齧り付いて、まったく用をなさなくなった。
                   
 斜め前に座っていた女子高生が、私の様子を眺めてケタケ
タ笑っている。私は何事もなかったような顔をして潜望鏡を
覗いていたが、だんだんきまりが悪くなってきた。海面に達
して空気中に解放された私の喃語が、多島海に響き渡ってい
るのがここに居ても聴こえてくる。すべての風が喃語を喋り
出すのも時間の問題だ。
                    
 女子高生はケタケタ笑い続けている。電車が陸に戻ったら、
彼女に事のいきさつを説明したいものだ。私は喃語を失った
のだから、普通の言葉で喋ればいいだろう。

                                                                                


                                        
(注)「喃語(ナンゴ)」=嬰児のまだ言葉にならない段階に発する声。
      (以前詩誌に投稿した作品を書き直したものです)
       





                                   


自由詩 ぬるい風 Copyright 壮佑 2012-02-09 20:43:24
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