アンダートーン
ホロウ・シカエルボク







たった独りの部屋でさよならと言い続けた
たった独りの部屋でそれを言い続けるには
たった独りであることを忘れなければならなかった
冷たい世界は骨を
機械のように冷やして
きいんという耳鳴りを絶えず響かせる
どこにも出て行くことのない
エコー


失った指先
失った指先が描こうとする希望は
やはりどこか失われていて
飲みほした珈琲の
最後の苦みが
その時喉で鈍い痛みを放つ
たった独りの部屋でさよならと言い続けた
答える声のないことは空虚であり至福だ


腰までの金網を乗り越えて
許されない草原を果てしなく駆けたあの日
幼い心が飲み込んだ夕暮れの大きさ
いまだ胸の中で時折脈を打つあの色
あの時羽のようだった靴底は
どんな摩耗の果てに消え失せてしまった
今はない草原に風が吹きわたる
口笛の吹き方を忘れたころに


過去は壊れて飛散する天窓の硝子だ
片端から降り注いで裂傷と流血を呼び覚ます
たった独りの部屋でさよならと言い続けた
痛みと血液にどっぷりと濡れて
アンソロジー、この肉体を
喰らい尽くす病魔のようだ
割れた天窓の名残から雨粒が降りこんで
纏いつく温もりをくだらない希望みたいに流す


詰まった排水管から逆流してくる
様々な汚物のようなエトセトラ
呼吸を堪えたりするには
至らぬほど好きに生きてしまった
汚れた世界の中で歌を口ずさんだ
そうすれば少なくとも
なにがしかは殺せるだろうと思って
なにがしかは殺せるんじゃないかと思って


そして月の明かりが
いつしか天井の穴から射し込む
雨は上がったのだ、雨は
もうとうに上がってしまったのだ
そして月の明かりが
天井の穴から差し込む
傷口はかさぶたになり
紛れ込んだ蛍の安息の地になる
たった独りの部屋でさよならと言い続けた


俯いて痛みに耐え
やがて眠りこむ
夢の在り方はいまこの時よりも途方もなく
命は曖昧な蜃気楼のようなものになった
あれは消えるかもしれない
あれは消えるかもしれない
尻を光らせていた蛍が不意に
ちからを失くしてかさぶたから床へと落ちる
水溜りの中でそいつは
握り潰されたようになって死体だった


たった独りの部屋でさよならと言い続けた
それは徹底的であって
尚且つどこにも着地することが無かった
蛍の死体と傷の痛みと
また滲みだした血液
天井からの水滴をなにかと勘違いする
凍えているのに震えることはなかった
本当の喪失は
ことさらになにかを奪ったりしない
目を見開いているだけの誰かが
なにを見つめているのかなんて想像すらつきやしないだろう


心臓がパンピングしている、たったひとつの言葉で踊り続ける舞踏みたいに、失われる度に送り込まれる血液の温度、生身であるということの喪失と恍惚、割れた天窓の頂上にある月、硝子が中空に跳ねるその光のレスポンス、壁は…宇宙だ、生命はうろたえて喀血する、今夜存在をここに塗り込めよう、一枚の絵になれば永遠に生きられる、たった独りの部屋でさよならと言い続けた、すべては約束されていたんだ、生まれたときから肉体はスクラップだ、すべては約束されていた……ああ、天窓、天窓の穴、そこから覗く月は黒目のようだ、黄色い黒目がこの終焉を眺めている、たった独りの部屋でさよならと言い続けた、光は降り注ぎ、跳躍し、彩り、空気は冷え、纏いつき、かさぶたは痒く、なお血は流れ続け、凝固し、枯葉を踏むような音を立てて崩れ、視界は霞み、今夜、命は蜃気楼だ、本当とは違うところにあるなにかだ、ああ、血よ吹け、吹き上がれ、一枚の絵になれ、永遠になれ…本当の喪失はことさらになにかを奪ったりはしない、それはただ無くなってゆくだけさ、氷が溶けて水になって蒸発するように、ひととき流れた歌の残響がほどなくメロディのあとを追ってゆくみたいに…!





肉体から逃れられればそここそが天国だ
生きながら求めるものなどなにもなかった






自由詩 アンダートーン Copyright ホロウ・シカエルボク 2012-01-29 22:16:52
notebook Home 戻る  過去 未来