詩と運命ーーー最近の詩についてーーー
yamadahifumi

詩を書いている人には主に二種類あって、一つは詩という形式に向かって書いている人(難しい言葉を使って「詩らしい」形式を追求している人)、そしてもう一つは社会の通俗的な観念に向かって書いている人(希望を持とう、がんばろうとか)だ。

そしてこの両者とも、自己の内面に忠実に詩を歌うという、本来の詩の名目とは外れている所で活動しているように見えてならない。今、そのように活動しているのは「神聖かまってちゃん」だけーーーだ。

以前の田村隆一や吉本隆明は何と言っても、詩人と言える面があった。そしてもっと昔にさかのぼって中原中也や萩原朔太郎はどうあっても詩人だった。彼らが貧乏だろうとプー太郎だろうと何だろうと、少なくとも彼らは彼らの運命に忠実であり、彼らの運命に対する誠実さというのが一つの詩を生んだ。彼らは痛ましいほどーーーそう、痛ましいほど、自己の運命と詩という形式がくっついて離れなかった。今、そんな詩人がどこにいるだろうかーーーみんな、詩を外的なものだと思って書いているのではないか?プロであろうと、何であろうと。

詩というものが何であるか、再考されねばならないが、詩というものが人の心を打つのはそれが心を映したものだからではないか?・・・というのは根本的な問題ではないか、と僕は思う。ここに「詩の定義」が、確実な詩の定義が、最高の詩の定義があるとしよう。そしてこの詩の定義に従順に詩を作れば、最高の詩が作れるかどうか?・・・実際にやってみれば良い。詩の定義は世に沢山出回っている。

もっとも詩に通暁した小林秀雄はランボーの詩の中に一つの謎を・・・運命という最後の割り切れない数値を見出した。


散文(批評随筆小説等) 詩と運命ーーー最近の詩についてーーー Copyright yamadahifumi 2012-01-27 01:24:51
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