金魚(散文詩)
そらの珊瑚

梅雨の晴れ間に射す陽光は、いかにも目に眩しい。この図書館の処々にはステンドグラスのはめ込み式の窓がある。陽が射さない日には、くすみ、精細を欠くその窓も、今日は冴々と色を発色させて美しい。ステンドグラスが教会に使われているのは、(主にそれらの絵に聖書をモチーフにしたストーリーがあることが多い)文字の読めない信者にも、わかりやすく教えを説くためと、いつだったか読んだ本に書かれていた。教会で彼らはそこに天国を見ることだろう。朝日が刻々とそのステンドグラスに命を与え、色の透明度を増していくきらめく美しい世界に、まだ見ぬ楽園の地、まさしく天国を感じることだろう。 
 私は無宗教である。天国も地獄も同等に信じてはいない。死んだらそれで無になる。肉体が滅べば、それに付随する精神世界もそこで終わりだと思っている。骨はもはや思考しないのだ。もし私に守るべき家族がいたなら、どうであったか。自分が死んだのちのことをあれこれと心配しなくてはならないかもしれない。家訓をしたためたり、遺言にはどう書くべきか、死後の家族のありように心悩ませるかもしれないが、幸いなことに、家訓も、遺言も、配偶者も、子供も持たない、天外孤独な身の上だ。遅かれ早かれ、いすれは無縁仏となるであろうことについては、不幸なことに、と言い直すべきか否か。
 ウィークデイの図書館には、私のように暇を持て余したリタイア組と思われる初老の男が多い。ぼやけた色あいの服に、薄くなった頭頂部を隠す、これまた似たような、くたびれた古帽子。老眼鏡。いずれも見たような顔ばかりだ。私も新聞はとうの昔からとっておらず、ここで読むのを日課としている。年金のみの暮らしをどうにか立ちゆかせるための、ささやかなやり繰りとでもいおうか。そうして、ゆうに二時間はかけて五社のそれを読むのである。それだけで、たいくつな一日が残り二十二時間になるのだから、悪くない時間の使い方であるだろう。
     ◇
 そろそろ腹が減ったので、本を二冊(今夜の友に一冊。もう一冊は先の一冊が面白くなかった時の保険。つまらない本に時間を費やすことほど、つまらんことはない)借りて帰ろうと、貸出しカウンターに並ぶと、前に居る幼い少女が
「キンギョサン、オフロ、ハイッテルヨ」
 と人差し指をアンテナのようにさして言う。カウンターの上に直方体の水槽が置いてあり、二匹の赤い金魚がゆらゆらと泳いでいる。すると、不意に現れた老人(見た目は私より十は上だろう)が
「オフロではない、風呂に入ったら金魚は死ぬ」
 と抑揚のない、しかし無駄によく通るバリトンを響かせて、去っていった。カウンターの中で作業していた女の手が一瞬止まる。若者のいうところの、空気が固まるとは、まさしくこのことを指すのではないか。何気なく口から出た一言の行方が、思いもかけない波紋を描いたことに、少女はびっくりしたのだろう、傍らの母親らしき女の太ももあたりに抱きついている。
無性に腹がたち、「じいさん、だまってろ」と言いたかったが、哀しいかな、筋金入りの意気地なしであるゆえ、言えなかった。生涯でたったひとつと呼べるものなら呼んでみたい、若い日の恋も、意気地のなさが災いして、実らせることはできずに終わった。
じいさんがおしなべて皆 優しく枯れると思ったら大間違いで(ばあさんもたぶんそうだろう)偏屈じじいになるには、なるだけの理由があるのかもしれないが、孤独で侘しい老人であっても(老人は死に近い生き物なので、たいてい孤独であって侘しいものだが)少女の風呂で、楽しい空想の風呂で共に遊べるじじいでありたい、と私は願う。
 水槽の中では金魚の尾ひれによって生まれた波紋が、真緑の水草を弄んでいた。
 外へ出たら、海のような空に、くっきりと虹が渡っていた。虹の上を渡れないと知って失望したのは、果たしていつごろだったろうか。先ほどの少女は、どうだろう。もし信じているのなら、共に、ここではない何処かへ渡ってみたいものだ。
 虹を渡ったその先に天国というものがあるとしたら、信じてはいないが、想像するのもきっと楽しいことだろう。
とうの昔に得た失望感は、永い熟成を経て、確かな発酵物となっているはずだ。私は宗教を持たないが、発酵物を心に置くじじいだ。




自由詩 金魚(散文詩) Copyright そらの珊瑚 2012-01-26 10:48:06
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