墓について
salco

蟻んこの墓は小さ過ぎて見えない
やっぱりそれは土の中
甘い罠にはまった末の
ガラスの蟻地獄でもない限り
だとしても
斥侯も出さない女王蟻が
弔意を示す訳がない
無きに等しい一介の
労働者階級のボンクラになぞ

犬のお墓はどこだろう
お利口さんの墓はやはり土の中
割り箸なんかの墓標を立てられるが
それさえ飼主に
三十坪程度の敷地がなくては叶わぬ贅沢だ
死んだ犬の為に泣いてくれるのは
子供かウスノロぐらいのもの
ちぎれんばかりの尻尾の思い出と
反旗なき犬歯の返礼に
さもなきゃ収容所で五日間吠え通し
一酸化炭素を嗅がされるか
筋弛緩剤でも射たれて炉に直行だ

猫にはどうも墓らしい墓が無い
勝手気ままな性分の
自由に増えすぎる
高貴な浮浪者達の少なからずは
舗装道路の真ん中や端っこに飛ばされて
舌と腸を出していたり
ゴミ捨て場の家電の上で腐っていたり
これほど優美な肢体と傲岸不遜
この世ならぬ翡翠色の千里眼さえも
果たしてファラオが全滅した事や
中世の裁判と何か関係があるのか
贔屓の条件にはならぬらしい
せっかくニャー*と言っているのに

鶏、豚や牛など家畜の墓は二つある
資本のかかった屠殺場と
人間の口から肛門に至る消化器官
すると私は実に
何頭かの牛、何十頭かの豚
何百羽もの鶏の生きた墓標な訳だ
こうして「部分遺体」は強塩酸に溶かされて
見る影もなく黒褐色の排泄物として便器に落ち
流し去られ完結を見る
そう考えると、便器ほど示唆に富んだ
不思議な機関はこの世にまたとない
喩えて言うならこれも一つの
自然界と人間生活を画する「社会の窓」であり
且つ広大無辺の宇宙をものする哲学観念の入り口に違いない
何故なら便座など、まさしくゼロやΩでないか

動物園の動物達はどうなのか
大抵そこには「塚」がある
大概の刑務所に「碑」があるように
遺灰の全部はないだろう
地面が隆起していないから
ならば火葬場はあるのかな?
死んだ熊なら炉に入るだろう
ライオン、トラもゼブラもゴリラも
―― ゾウやキリンは?
大きな体や長い首はどうするの?
そんな大きな建物どこに在る?
では
未明に荷台に積んだ遺骸はどこでばらす?
鼻や首の垂れたトラックなんか走ってる?
どこでぶつ切りするのだろう
飼育係がするのかな、泣きながら?
園長さんに訊いてみた?
園長さんは答えてくれた?

地球の地主、人間の墓さえやはり土中だ
しかし余りに暗くジメジメしており
ミミズや粘菌の生活圏であるから
生前の高等・高尚な生活形態とは隔世の感あり
しみじみミジメだ
これでは百獣の王の名が廃るというもの
実に救い難い…
ので、人類はこの世とは別に地所を求め
今一つ別荘を建てる事にしたらしかった
かの新人類が時間と空間の歪みを発見するより遥か以前に
下々の、しかも単純低劣な思考様式をしか有さぬ先人達が
見た事もない世界をひり出していた功績は
しかし何の驚きにも不都合にも当たらない

観念こそは魔法の杖だ
そのかみ着火の物理学以外
科学の か の字も無かった暗愚の時代
およそ不可解で理不尽な自然の摂理に
無知なる人間が対抗し得る手段は観念しか無かった
―― 今もそうでなくもないが
人間は唯一、頭の中で
WHYとWHY NOTを頻発する動物だ
その脳髄に深く突き刺さった性分は
(或いは林檎とも言うが)
単に不思議がるのではなく
根拠、理由を知らねば気が済まない
つまり克服せねば気が済まない
それでも克服出来ぬ場合はどうするか
捏造するのだ

かくて人間は天地創造を為し
何日目かは知らぬが神をこさえ
現世の管理人としての権限を与えた
のみならず、別天地の所有権をも与え賜うた
科学(的考察と仮説の実証手段の獲得)によって
自然界を征服する遥か遥か以前に人類は、
文学的な独善で恣意的に作り上げた観念により
既に現実世界の不思議を克服していたのだ
そして太陽神や古代ギリシアの神々が絶滅し
旧約の世界が閉じられ
復活男については顧慮の要もない現代に於いてさえ
天国という観念は崩壊の兆しもない
地獄など信じる馬鹿はいないが
主なる神の戒めとは何ら関係のない次元で
人はこれを維持し続けている
何といじらしくも意固地な事か
己が存在に対する若干の欲深さと
より切実な他者に対する愛着のゆえに

よって人間の墓は土中にあらず空の上の上
―― 宇宙空間の絶対無の闇を人工衛星が
飛び交うA.D.2001にあっても
―― 天国なのだ
それは、帰結たる死の為の墓ではなく
永訣の超越
「向こう側」の生き場所だ
それは自分の死滅より寧ろ
愛してやまない対象の無残な消去を拒絶し尚も
詠嘆に身をよじる愛情が建設した再会の場所だ
鞭打たれ続ける愛慕は
追憶だけでは決して満足しない
心という、湿った暗渠のみに死者を生かし続ける事に
慰めは見出せない
何にも代え難い存在は、
この閉ざされた頭蓋から解き放ち
何者かに委ねなければ
空虚に血を流し続ける我々の心に平安は降りない
あの世の地主は神であるに違いないが
それは論拠の補強材に過ぎない
神なしで、我々は去った者達に毎日毎日呼びかけている
「そっちはどう? 楽しくやってる?
あなたがいなくて寂しい
毎日がつらいよ、生きているのは
でも待つね、再た会えるから」

本当は今すぐにでも会いに行きたいのだが
自己保存本能の他にも人間は
悲しい諸事情に縛られ
地上から飛び上がれない
無論それは物理の問題ではなく
今や地上に一人残された心は、
現世に亡き者の唯一の墓標なのだから
それを己が生命もろとも引き抜いてしまえば
他の誰があの人の存在を証できるというのだろう
あの人をこれほど知悉し愛した者は
私を置いて他にはいない
係累の絶えた墓は忘れ去られ
苔むし、朽ち葉に埋もれている
いずれ皆そうなるものの
私が再び彼の元に行く迄は
灰塵に帰すには余りに惜しい存在を
この世においても保証し
再現し続けねばならない

この、のっぴきならない錯誤的転換は
こうして唯一人の観客のため
スクリーン上に物語をエンドレスで映し続ける
映写機の輪転音は
果てない呼びかけの呟きだ
レンズは愛惜の涙に傷んでいる
愛、愛、愛
愛こそ人の生まれ来る理由だ
この光源を欲しがらぬ者などいはしない

てなわけで
悲痛に握り潰された心は
人間の墓場を天に作り地に墓標を残す
―― 本当に?
残念ながら
時代は更に変わってしまった
二十世紀
あらゆる観念をも凌駕する現実を
人類は創造したがゆえ
究極の到達点は知らしめる
人類の墓場は核分裂の臨界だ
これを回避する術はなく
半減期十万年のこれら透明瓦礫に
いずれ埋もれて絶えるのみ
ハ!
        
(*)ニャー … 否定形。niet,nei,non,noの意。我が国では
          愛知県が主流。東北・北陸地方では主にンニャ。


自由詩 墓について Copyright salco 2012-01-25 00:48:21
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