サナトリウム(掌編小説)
そらの珊瑚

 光と影が突然交錯する、いくつかのトンネルをくぐる。電車に揺れながら、いつも不思議な感覚に囚われていた。
 どちらかが現実で、どちらかが夢だとしたら、一体僕は今どちら側にいるのだろうか、と。

  ◇

 君のもとへ、こうして訪れるのは、ほぼ仕事のように日常のことになりつつある、と言ったら君はなんというだろうか。
「気の進まないお仕事でしたら、どうぞ放り投げてくださって結構よ」
 と冷たく横顔(プロフィール)だけを見せて言うだろうか。
 もしくは
「まあ、ご苦労様です。けれど、お給金は払えなくてよ」
 と皮肉を込めて言うだろうか。
 僕は苦笑する。人生に問うてばかりだ。正しい答えなどありはしないのに。

 向かいあっている座席の斜め前に座っているおばあさんがにこやかに話しかけてきた。頭に、手ぬぐいをかぶっている。白地に青く瓢箪ひょうたんの柄をのぞかせている。
「だんなさん、どちらへ行きなさるんで?」
「ええ、妻の見舞いに。サナトリウムに入院しているもので」
「そりゃあ、いけませんね。けど、ここの空気を吸ってたら、病気も良くなりますて。海から生まれてくる、おそろしく新鮮な空気だでね」
そう言っておばあさんは傍らの背負子しょいこから蜜柑をひとつ取り出すと。僕に手渡した。
「どうぞ、晩生おくて蜜柑だ」
いかにも採れたてで、まだ生きているかのような健康そうな蜜柑。
 妻にも、弾けんばかりのそんな時代があったことを、ふいに思い出し、思わず鼻の奥がつうんとした。
車窓から、烏帽子岩が見える。誰が最初に名付けたのか、なるほど、烏帽子であると無理に感心し、ふいうちするように現れた感傷(センチメント)が早く消えるよう、やり過ごした。

 温暖な土地とはいえ、二月の風は顔を差すように冷たい。サナトリウムの庭を散歩する人も少なかった。病室の前に置かれた琺瑯ほうろう製の洗面器に手を浸す。掻き回されて消毒液の匂いがさらに強くする。
 寝台に横たわった妻は僕の姿を認めると
「あら、いらっしゃい」
 と言って、冬の陽射しのように、うすく微笑んだ。
「ねえ、見て。真っ白なシーツが風にはたはた泳いでるわ。なんだか、生きているみたい。いいわねえ」
「本当だ。なんて元気がいいやつらだ。よし、暖かくなったら、また一緒に外を散歩しようじゃないか。その時は君だって、あいつらに負けないくらい元気になっているさ。空に飛んでいく位にね」
 僕は嘘吐きだ。偽善者だ。けれどそんな僕のことを、いつも君は許してくれていた。

「ねえ、大分長くなったでしょう。」
 君は寝台に身体を起こし、編みかけの襟巻きを枕元から取り出して見せた。
「ほう、上出来じゃないか。誰かにプレゼントするのかい?」
「そうねえ、一生大事にしてくれる人にだったらあげてもよくってよ。私がいなくなっても、襟巻きはその人のことをずっと温めてくれるの。私の代わりにその人を守ってくれるのよ」
 その襟巻きには見覚えがあった。君が【夕暮れ色のセーター】と呼んでいたお気に入りのセーターだ。今はその身をほどかれ、襟巻きに生まれ変わろうとしていた。こんな風に何ども生まれ変われたら、どんなにいいだろうか。人はそんな訳にはいかないだろうね。
 産みたての卵の黄身のような色とちょっとくすんだ赤煉瓦のような色の糸が撚ってあり、その景色は夕暮れといえないこともない。
「私がいなくなったら、こんなにひ弱でない、若くて、健康な人を見つけてくださいね。大丈夫よ、私、妬いたりしないから。その代わり、この襟巻きはずっとお側に置いてくださいましね」
 僕は弱虫だ。聞こえないふりをした。

「あっそうだ。今日ここへ来る電車の中でいいものをもらったよ」
 ウールのコートのポケットから蜜柑を取り出して妻に手渡す。びいどろ細工のように向こうが透けてしまいそうな白い指だった。
「あのおばあさんはきっと蜜柑の行商の途中だったんだろう」
 君はクスリと笑った。
「いいえ、その方はレジスタンスよ。あなたはまんまとその片棒を担がされたんだわ。その蜜柑は、その蜜柑はね、時限装置付きの小型爆弾に違いないわ」
 眉をひそめて、内緒話をするように小声でささやいた。そんな時、病室は暗い地下組織になった。
「白衣を着たスパイが潜入しているかもしれなくてよ」
「もしもの時はあの衝立ついたての向こうに隠れよう。あの裏は隠し部屋への扉があるのさ」
 いつのまにか消毒液の匂いは硝煙のそれと化し、僕の腕時計は最新鋭の無線機になる。先日は秘密の花園に。その前は、巴里のムーランルージュだったね。
 君のことを、ひ弱だなんて思ったことは一度たりとてなかった。僕なんかより、遥かに君の心は強く、自由だ。三つ編みのジャンヌダルクよ。
 君の栗鼠のようないたずらな黒い瞳と、大きな洗いたてのシーツの羽が生えているような心を、僕は愛していたんだ。
「あなたも秘密警察に追われるかもしれない。お帰りの際は充分お気をつけあそばして」
「ははは。君は小説の読み過ぎじゃないのか。確か丸善にそんな檸檬を置いたやつがいたよなあ」
 妖精のような君の笑い声はいつしか小さな咳となり、ひゅうひゅうと荒野を吹きぬける風を生んだ。
 ここは新鮮な風が生まれるサナトリウムなんだろう!
 新鮮な空気をくれるのではなかったのか! 
 僕は君の背中をさすりながら、名も知らぬレジスタンスとやらをを心の中で責めた。君の心の自由を勝ち取るためだったら、喜んで僕はその仲間になろう。

 病室を去るときの儀式をするのが心底嫌で、同時にこれをするのは僕だけにしかできない大切な役目という気がしたものだった。あれを人は責任感と呼ぶか、それとも生きるためのレジスタンスと呼ぶのか。同志よ!
 君の横たわる膝のあたり、浴衣がはだけないよう紐で縛るのだ。
「寝乱れたまま、逝くのは嫌」
 愛する人の美意識の前に、君の希望を叶えざるを得なかった。きつくもなく、さりとてあまりゆるすぎず。
「あなたは世界一の紐結び職人ね。あなたに結んでもらうと、なんだか安眠できるのよ。明日、この紐をきっと自分でほどこうって希望が生まれるんです」
 あれは君の最後の優しさだったのかい。
 せめてもう一度、君に春を見せてあげたかった。

   ◇

「おじいちゃん、おじいちゃんってば」
 縁側の籐椅子でうたた寝をしていたようだ。身体に、過去へ旅した、かすかな揺れが残っている。
 目をゆっくり開けると、5歳になる孫が【夕暮れ色の襟巻き】を手にしている。
「おじいちゃんの大切なマフラー、お洗濯できましたよぉって、お母さんが」
「おお。ありがとう」

 君が守ってくれたおかげで、とてつもなく長生きをしたようだ。

「はい、爆弾、持ってきたよ」
「これ、またそんな物騒な呼び方して、と、お母さんにお目玉もらうぞ」
「うふふ、おじいちゃんの真似してるだけよ」

 瑞々しい蜜柑。まるで生きているかのように、かつても確かにそこにあったのだ。



散文(批評随筆小説等) サナトリウム(掌編小説) Copyright そらの珊瑚 2012-01-22 08:45:48
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