日記(/0115)
はるな


こちらへ住むようになって8ヵ月が経った、といえば、もう慣れて当たりまえだという頃だけれど、しかし昨年の9月頃まではまだここと、実家とを行き来していたから、じっさいに腰を落ち着けてからはやっと、3,4ヶ月ということになる。それは、夫婦として暮しはじめてからの期間がそれほどということで、浮ついた気持ちが、生活のなかにしみしみとなじんでいくような心地がするには、たしかに納得できる時期だ。いまは電気ストーブで足首を炙りながら、わたしはわたしの問題を考えている。

じつにさまざまな意見がありました、それは、これが(わたしの問題が)年齢的な―つまり時期的な―ものだとか、環境によるものだとか、あるいは季節とか、色とか。であるからには、それらが変化することで、わたしの問題も―良くなるにしろ、悪くなるにしろ―、変化するはずであった。(今のところの結果でいうと)、それは、ちがいます、たしかにそれは変化しましたが、変化というよりもむしろ成長したというべきでしょう。わたしは今はっきりと感じています。わたしの問題はわたしの外側にはありません。いつもそうでした。

(猫にかんする小説を読みました。二度読みました。)

結婚することは、のぞんで、他人と深く関わることは、きっとわたしの問題を解決するだろうと思った。でもそうではないと知りました。わたしはひどくつめたい気持ちがしている。誰も悪くないか、あるいは、悪いとしたらいつもわたし自身です。

夫が寝ています。やすらかな寝息。ほんとうに、天真爛漫に眠るひとだ。夫の寝息は、わたしを信じられないほど幸福な場所へ運ぶ。いつも、途方もなく遠く、夢みたいな、でもそれでいてはっきりと現実的な幸福。そんな場所があるとは知らなかった。でもそれと、わたしがわたしの体を切り刻むことは、何の関係もないのだ。幸福は、都合の良い治療薬ではない。幸福は幸福としてそこにあり、わたしはそれを感じることができるが、それはわたしの問題を解決しない。

なぜならわたしが不幸であったことはないからです。思えばそうでした。わたしは不幸だから問題を抱えているわけではないし、問題を抱えているから不幸になったわけでもない。

コンピューターや、小惑星の幸福は、誰かほかのひとに任せておきます。
わたしは、わたしやわたしの身近な人々の幸福を考える。

そして、この寝息のそばで腕を切りました、とても、そうするしかないような気持ちがしたからです。ひどい乖離をかんじました。いままでにない奇妙な感覚を、ほんの数秒感じました。そして強く思いました、なにも解決していない、問題は、なにも変化していないと思いました。
混乱しました。
立ったり座ったりしました。寝ている夫を起こさないように気をつけました。夫はしかし、いつもとても深く眠るので、あまり気を使わなくても心配がないことも理解していました。わたしのある部分はいつもどおり冷静でした。わたしの冷静な部分は言います「いつもどおりの混乱だ」と。そうです、それはたしかに日常的に経験している混乱でした。すこし大きかっただけです。そして、わたしは、ひとつずつ考えました。そうするしかない。いつも、考える、ことしかできないのだ。

絡まったチェーンは、ゆっくりと、時間をかけてほぐしていけば、いつかはまた一本のまっすぐなチェーンに戻るかもしれないし、あるいは戻らないかもしれない。

わたしが腕を切ることや、あちらこちらで関係を持つことや、うまく息つぎのできないことは、それらは、わたしの「問題」ではありません。それは結果であり、わたし自身です。わたしはそれらのことを、不便に感じるときはあっても悲観はしていない。

わたしはこの混乱や、不安を、あるべき場所に戻してしまいたいだけです。
この乖離を、剥がれたわたし自身を、上手いこと縫い合わせ、ひとつの、背骨の通った時間を手に入れたいのです。

猫にかんする小説をもう一度読みます。わたしは作者の意図をつかむことができなかったからです。小説のすぐれた点は、こうして、こころゆくまで何度も読み返し、探ることができるところです。会話だとこうはいかない。
夫は寝ているので安心です。牛乳も新しいものが冷蔵庫に入っています。昨日は牛乳が切れていてとてもかなしかった。ごみ袋もストックがあるし、明日は休みなので起きる必要がない。つまり眠る必要もない。



散文(批評随筆小説等) 日記(/0115) Copyright はるな 2012-01-16 02:52:02
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