語られた記憶(散文詩)
中川達矢
ひとは記憶を捏造しながら生きている。あそこにいたはずの僕は、ここにいる僕の記憶の中で生きていて、かつ、ひとの記憶の中ではいなくなっていた。人の記憶を僕は記憶できない。記憶には、記憶の代替不可能性が付きまとう。地面に足跡が残れば、僕の歩行が記録されるだろうが、今は足跡など残らない地面が設けられており、僕とひとは記録を踏み合い、そして、記憶を消し合う。もしかしたら僕はひとを消しているのかもしれない。ひとと話をすれば、僕だったはずの僕がひとになっている。ひとは僕を消して、笑いをとっているが、そのひとは僕だったはずだ。そのとき、僕は僕ではなかった。僕はその話を聞いているだけのひとだった。そして、その話を聞いているだけの僕は、いずれひとの記憶から消えている。そしてまた、僕は僕とひとを失っていく。僕はこのようにして、ひとをひとにしてしまっているのだろうか。いや、僕をひとにしてしまっているのは、僕なのだろうか。そのひとは僕である。どうして、ひとが入れ替わってしまうのだろうか。あなたが話しているそのひとは僕なのに。話しても、歩いても、嗅いでも、聞いても、ひとの記憶によって、僕は僕になれない。僕のその感覚はひとのものなのだろうか。僕は僕の感覚を持って、記憶している。いや、記憶しているその記憶さえ、ひとの感覚によるものなのか。僕の感覚が捏造されているとするならば、僕が僕であるための手段は何であろうか。記憶か。記録か。記録も残せないこの世界で、記憶以外、何に頼れるのか。理性も僕のものであるかどうかわからないのに頼れるか。ひとは記録を捏造したら罪になるのに、記憶の捏造を罪と制定されず、それは、罪と思われていないからだ。記憶は間違っていて当然なのだ。記憶は然るべき間違いなのだ。記憶は記憶されない記憶なのだ。僕の記憶によれば、その話で語られたひとは僕である。決してあのひとではない。