岩尾忍詩集『箱』小論
葉leaf
特に忘れることができないのは、私がこれらの作品のうちの多くを、決して冗談でなく、遺書と考えて書いたということだ。そして純粋に自分一人のために、私というただ一人の読者のために、力を尽して書いたということだ。
(「あとがき」)
詩というものは、放っておくと、書き手の予想もしない方向に進んでいく。それは詩が即興性の強いジャンルであることに関係しているだろう。だから、作者はそこに厳しい視線を向ける。無垢な詩行はときに作者にとって異物として感受される。そこで作者はその詩行を削り、新しい詩行を手探りするのだ。作者は詩を書くときに二重の選択をしている。一つは詩行を即興的に思いつくときの無意識の選択であり、もう一つは、その思い付かれた詩行を自己の感受性と照らし合わせて許容できるかどうか判断する意識的な選択である。
さて、私は今「自己の感受性」などという言葉を安易に使ってしまった。だが、「自己の感受性」とは何だろうか。それは一種の様式ではないだろうか。それは、複雑な起伏に富んで、典型的なものから常に様々な方向へとずれていく、そういう差異の複合体ではないだろうか。そして、その個性的な差異の複合体が自己のものとして統御されているのだから、「自己の感受性」とは、自己の身体と非常に良く似ている。なぜなら、身体というものも典型的なものからの個体差が複合して出来上がった一つの様式であるからだ。
さて、私は今「自己のものとして統御されている」と安易に語ってしまった。ところが、この「感受性が統御されている」という特徴は、岩尾忍の詩について特に顕著に表れているものであり、岩尾の詩を前提にしたからこそ、私はそこに統御の働きを見てとったのだ。岩尾が語るように、彼女の作品は、彼女の強い眼差しのもとで、厳しい統御のもとで書かれたものである。それゆえ、彼女の感受性は、統御された感受性であり、統御された身体に似ている。そして、彼女の作品は、彼女の感受性の起伏と差異の複合体と厳しく照らし合わされたものであるから、彼女の作品もまた統御された身体に似ている。
三階の上に四階があり
四階の上に五階があり
五階の上に六階があり
六階の上に
また三階があった
三階の上に四階が
四階の上に五階が
五階の上に六階があった
(「階段」)
われわれは身体を多くの場合自動的に動かしている。そのときにも当然統御の働きは働いているであろう。だが、統御が顕著に働く場合がある。例えば人ごみの中を歩くとき。向かいから歩いて来る人間から意識的に身をそらしたり、他人をじろじろ見ないように意識的に視線を伏せたり。そのように意識的に身体を統御するとき、それでも身体の各パーツは、意識が志向する運動に向けて相互に連携しあい、相互に照らし合い、含み合い、また、環境にうまく適合するように、環境と自らを照らし合わせながら運動するのである。
作品もまた身体に似ている。それぞれのパーツの相互の連携と含み合い・意味づけ合いによって全体をつくっていく。そして、その全体をつくるときに、統御されたものとしての典型的なものは論理であろう。引用部では、岩尾は「三階の上に四階がある」というような論理を繰り返している。論理こそは、「統御された作品」の典型的な道具立てであろう。「六階の上にまた三階があった」という部分は論理の破綻であるが、この論理の破綻は、「六階の上には七階がある」という正常な論理を誰もが認識しているからこそ成立するのである。つまり、論理の破綻は論理を前提とするわけであって、論理の破綻と論理の正常な遂行は同じ平面の上でなされているわけである。
私が人である時 お前は鳥であり
私が籠である時 お前は人であり
私が鳥である時 お前は籠である
時として
私がそのいずれでもない時
夕闇に溶けている時 その時だけ
お前はぴったりと
私に重なっている
(「時として」)
ところが、身体というものは統御されないものでもある。いわばそれは、統御の働きが、意識の働きが、反省の働きが成立する以前にそこに在るものでもある。身体は意識と物体とを単純に折衷して出来上がるものではない。確かに、意識は物体的であり、物体も意識的である。意識の中には常に物理的存在が入り込んでくるし、物理的存在もまた意識によって照明を与えられなければその存在が支えられない。だが、身体は、意識と物体を反省的に、明るい照明のもとに連結するものではない。むしろ、身体は、意識が成立する以前、物体が対象化される以前に、つまり「私」「あなた」「それ」という人称が成立する以前に存在するものであり、意識と物体が発生してくる初源の根拠のようなものである。このいまだ統御されていない身体は、それゆえ、反省などによる規定を逃れて、様々なものに変幻自在に形を変えて流動していき、思わぬところで特定の形に凝固したりする。
引用部の「お前」とは「私」のことであり、分散された中心のことである。先に作品は身体に似ていると言ったが、身体の外部への流出は、作品全体のレベルと作品内のレベルの両方で起こる。身体は作品として外部に流出すると同時に、作中の駒としても外部に流出する。だから、「私」は「人」「鳥」「籠」にも成り得るのである。つまり、統御されていない身体は、いまだ人称が成立していない以上、それは二人称の方角へと流動し二人称として立ち現れることも可能であるし、三人称の方角へと流動し三人称として立ち現れることも可能なのである。統御されていない身体は、「私」として中心化されていず、「私」として特権化されていないがゆえに、「お前」として中心を外部に分散させたり、「人」「鳥」「籠」として、つまり中心をもたないものとして、ただ物理的基体のみをみずから分離することも可能なのである。
左手を野菜の上に載せ、右手で包丁を握り野菜を切る。このとき、右手と左手は統御されていると言える。ところが、料理も食事も終え、炬燵の中に手を入れながらテレビを眺めるとき、右手も左手も統御されていない。それは未明の身体であろう。このように、統御された身体と統御されない身体は、循環しており、また分節化されており、あるパーツ群が統御され互いに連携して一連の意識的行動をとったかと思うと、次の瞬間にはそれらのパーツ群は統御されずに放置され、今度は別のパーツ群が統御され連携していく。岩尾の詩において、「私」が「お前」「あなた」や様々な物体となって遍在していく過程は、「私」という統御された身体が、一度人称を失い、統御から外れて根源的な無名のものとなり、それでありながら見えないところでさまざまに流動した後に、再び「私」の反省的意識によってとらえ返され、そのときに一定の他者性をまとい、二人称や三人称の位置に凝固するという過程である。
箱こそが重要なのだ
箱さえあれば
何かを入れることができる
あるいは何も入れずに
抱いていくことができる
(中略)
「箱ですね」とあなたが言って
「箱ですよ」と私が答える
(中略)
箱こそが重要なのだ 箱さえあれば
(「箱」)
岩尾の身体は分裂して周囲に拡散していくだけではない。逆に、周囲から様々なものを集めて、それを身体の支配化に置こうとする、そういう運動も強く見られる。およそ認識しうるものは大概身体と何らかの関係を結んでいる。このベッドは身を横たえるもの。このテレビは眼球へと光を届けるもの。このジーパンは脚に履くもの。太陽ですら、身体によって熱を感じられる当のそのものである。このように、世界は身体によって意味づけられ、逆に身体も世界によって意味づけられているのである。身体と世界は、相互にその存在や運動の態様について影響を与えあい、互いに含み合っているのである。
引用部において、「箱」はそもそも世界の側にあったのかもしれない。つまり、統御された身体としても、統御されない身体としても、作者の側にあったのではなく、純然とした他者として世界に転がっていたのかもしれない。ところが、岩尾はそれを自己の身体と結びつけていく。「箱」は、そこに何かを入れるものであり、抱いていくものである。何かを手にとり箱に入れる、抱いて歩いていく、その触覚と重みと運動、それらによって「箱」は作者と結び付けられていく。ところが、箱はそもそも身体ですらない。だが、未明の身体、つまり、反省以前の根源的な身体であれば、それが箱になることも可能であった。逆に言えば、箱は、無名の身体として作者の身体の一部になって入り込むことも可能なのだ。そして、それを明示的に作者の身体とするために、作者は、「箱こそが重要なのだ」と言葉を発し、さらにそれを繰り返さなければならなかったのではないか。それは、世界に遍在する他者の身体を自己の身体と関連付け、あまつさえ自己の身体として、その延長として同定する、その肯定作業ではないのか。「箱ですね」「箱ですよ」という確認作業は、箱を自己とは異なるものとして確認する作業なのではなく、「箱」を明示的に言語化することにより、その存在と自己との意味づけ合い・含み合いを確認し、未明の身体として自己の身体に組み込まれた他者を自己の身体として明示的にとらえ返そうという作業なのではないか。
詩と身体の関係といった場合、まずは詩と身体の類似性について語ってもよいのかもしれない。詩も身体も、様々な起伏に富んで様々な差異を含んでいる一つの様式によって成立している。だから、詩を書く過程と身体を動かす過程は似ている。詩は作者の感受性の様式に従って、部分同時が連携しあい、意味づけ合いながら書かれるだろうし、身体もまた、その存在や習慣の様式に従って、パーツ同士が連携しあい、含み合いながら運動するだろう。そして、詩も身体も、作者の統御のまなざしで強く規律することができる一方、その統御から逃れて未明の流動的な領域で様々に変幻することが可能だ。そして、詩の内部のモチーフにおいて、身体はさまざまな形態をとってあらわれてくる。特に岩尾の詩に顕著だったのは、二人称や三人称を厳然とした他者として扱うのではなく、むしろ、自己の身体の変形したものとして、自己を反省的にとらえ返すものとして、二人称や三人称が用いられていた点だ。さらに、岩尾は他者をも自己の身体の中へと組み込もうとしていた。
さて、岩尾の詩に特徴的なこの傾向はいったい何を意味するだろうか。私はそこに一種の不安と安堵の絶えまないいたちごっこを感じる。「私」がいったい何者であるか分からない、そういう不安。そして、世界の側、他者の側の存在も何者・何物であるか分からない、そういう不安。その不安を解消するために、自己を異なった形でとらえ返したり、他者をも自己の中に取り込んだりする。そのことによって一応安堵する。ところが、身体というものは常に統御し続けることが不可能なものであるから、統御されない未明の身体は絶えず同定できない流動的な存在を分泌し続ける。だから、岩尾は完全に安堵することができない。自己を「お前」などとして対象化しても、他者を自己の中にとりこんでも、それもつかの間、いつの間にか自己から何かが抜け落ちていくし、他者は再び他者に戻っていく。岩尾はその統御されたものが統御されないものとして自己から分泌されていく、その事実に敏感なのだ。それゆえそこから絶えざる不安が生じ、不安を解消するために自己の同定を続けなければならない。この同定作業を象徴する物が「箱」ではないか。「箱」とは自己の身体であり、自己の同一性である。岩尾がこの詩集でやりたかったことは、自己の身体が絶えず他者として自己を分泌していくのを、あくまで「箱」の中にとらえ返そうとする、その運動ではなかったか。