白い本
……とある蛙

白い本 開かれた。たくさんの悲劇のあった年。
白い本 開かれた。たくさんの人生が消えた年。
白い本 開かれた。たくさんの想い出が断ち切られた年。


 その本は神田神保町の文芸評論専門の古書店Y書林で偶然出くわした。Y書林は駿河台下交差点角のS省堂書店並びの靖国通り沿いにあるそれなりの老舗だ。その書棚は評論される作家別にあいうえお五十音順で整理されている。

 さて、その本は っというと わ行の書棚の前の低い台に平積みされた未整理の古書の山に埋もれていた。ドンヨリとした店内にそこだけ鋭角的な空間、エッジの効いた色彩では決して無く、いわば崩れかかったバベルの塔
 確かにスポットライトのあたる一角にその本は存在した。
 背表紙は白、表題は不明、遠めに何か書いてあるように見えるが 手に取ると丸いアーチ状の膨らみを持った白い背表紙で、何も書いていない。ハードカバーの本には『ウンタライフマッカ』という本の名前とどこかで聞き覚えのある著者名、『ロウソク出版』という出版社名とよく読み取れない定価が印字されている。印刷ではなく印字だ。
 中を開くと細かい文字がびっしりで、老眼鏡の必要な自分には猫の毛玉のようでふわふわ掴み処が無く、読めない。クシャミをした拍子に二ページ分の毛玉が飛んで真っ白になってしまった。『流行性感冒につき休養中』という文字と『注射を打ちに病院へ』という文字は白いページを横切る。
 ページを閉じて奥の古本屋の親父に尋ねる。
  「この本はだれが書いたものなの?」
 親父は眼鏡のフレームの上からじっとこちらをにらみ
  「私が書いている」「売り物ではない」などと勝手なことを言う。親父は突然歌い出した、本に関係する歌らしかった。しかし、それは親父の自分史のような内容で、錦華小から一橋中などと詰まらぬ経歴を歌っている。履歴書の歌か?
古本屋の北側に面した入り口からは秋の夕陽の釣瓶落ち、親父の眼鏡が朱色に染まり本も同色に染まったまま親父の手の中でひろげられていた。
 値段を尋ねると「時価」と答える。売り物ではないはずなのだが。
 気づくと店内には寿司屋のネタ書きのようなものが書棚のここそこに 黄色のリボンのようにぶら下がり貼り付けられている。
 親父の歯槽膿漏の歯茎が笑った拍子に見えた。それは自分の朝の鏡の中と大差ないことを後頭部を夕陽に照らされながら感じた。北側からの夕陽を感じて。
 親父の歌は終わらない。買うのに恐怖を感じてそのまま後ずさりして店を出た。
  道の真上から太陽が照りつける。歩道に落とされた自分の影に向かって何事か叫んだ後、そのまま歩き出した。

 駅からの下り坂は若い派手な化粧の娘とその後ろにまとわり付く身体の線の細い男がやけに多い。彼らは一様にニヤついているが、目の奧はオドオドしていて、獣めいた息を吐き続けている。坂の途中の巨大な塔は彼らの牙城であり、ますます彼らの密度が高くなる。店を出てから坂を登ろうとしていたのだが、また神田神保町に向かって歩いている。S省堂書店のある駿河台下交差点を渡り、気づいたときにはまたあのY書林の古風な木枠のガラス戸の前に立っていた。

まだあの白い本が脳髄を鷲掴みしたまま自分を引きずり回している。


いろは四八文字順に作家が整理された書棚は やはり、黄色のリボンのようなネタ書きのようなものがぶら下がっている。『ん』の棚の前の低い台にその本は平積みされていた。白い背表紙には先ほどは読めなかったが、『…………伝』という部分だけが読み取れた。 『カンタライフデッカ』という表題が表表紙に印字されている。相変わらず印字されたもので印刷されたものではない。何の疑いも無く今度はその本を手に取りぱらぱらと何頁か眺めてみた。そこには見覚えのある木造校舎の写真や集合写真が、駒落ちした映画か、ぱらぱら漫画のように見て取れる。静止画像がどこか動いているような奇妙な感覚に囚われている。
 何も言わずに購入する決意をして奧の店主にその白い本を差し出した。金額は三五〇〇円、全く妥当な金額で、消費税と併せて三六七五円をそそくさと支払い、その本を引ったくるように受け取り、ショルダーバッグの中に納めた。
 店主が中年の女性だということに本の代金を支払うとき初めて気づいた。扉を閉め、来るとき歩いた坂道を早足で上っていったところ、ほどなく例の巨大な塔が右手に現れ、意識が薄れて行く。何かに転倒しているようでもあり、薄れる意識の中で視界一杯に冬空が拡がっている。

 どこかの内部、自分が顔の裏側を見つめているのか存在しているのか 不明。
細い両目から差し込む光の筋だけではイメージの光量が足りない。
そのため、頭蓋骨の内側を照らすプラネタリュームは暗く星の光は毛穴ほどの大きさにも見えない。
 頭蓋骨の内側は漆黒の闇に近く、何の映像も浮かばないことが度々ある。
 両目の窓から外界を見ても、グロテスクな風景、魚の骨のような並木とあまり舗装されていない泥の道が黄色の空に向かって畝って登っている。空には木造二階建の校舎が見える。壁が茶色なのか白色なのか写真が古くて曖昧だ。
その中を疾走する両足が僕にはあったのだが最近両足の付け根が瘤のように膨らんでしまって、足が回転しない。耳から聞こえる音は妙な金属音で別に気に障るほど周波数は高くないのだが、下腹に響き排泄を催させる。
異常な腹痛と足の付け根の疼痛脂汗と共にまた這うようにして裏側から外側に這って出て行く感覚に襲われる。しばらく時間の薄膜に覆われて一度点になった視界が次第に拡大されて行く。

 今、自宅の一室にいる。白い本を開ける気がしないので机の上に放り出しておいた。
悦に入った詩集やこれ見よがしの評論集、得体の知れない図鑑や書きかけの日記が乱雑に置かれている机。その一角に平積みされた白い本、その部屋にいないときも常に脳裏に浮かび、相変わらず自分の脳髄を鷲掴みにされている感覚を常に感じている。早晩白い本を開く予感はする。しかし、あの得体の知れない塔に引きずり込まれる感覚が恐ろしくてその誘惑に負けないでいた。
 この白い本をもって家に入ったとき部屋の隅で蹲っていた黒猫は目を見開いたまま視線を動かさなかった。何かを感じたのかも知れないが、猫は何も言わない。猫の韻文性と犬の散文性の微妙な違いを感じる。
 帰宅してからずっと白い本の前に佇むようになった。

 窓から満月の光が差し込む日、月の光にぼ〜っと浮かんだ本の表題は『東京オリンピック』だった。思わず手に取り本を広げるとそこには昔の代々木と渋谷の風景写真がコラージュのように勝手な向きに張り合わされ、脅迫文のように大きさも色も濃淡も違う活字がばらばらに印刷されている。薄れ行き意識の中でその内容を読み取ろうとするが、意識自体が不見当な夢のようだ。

 また、両目の間から光が入ってくる。光はかなり淡いもので内部を薄ぼんやりと照らしている。内部にはあの親父がいる。あのおばさんもいる。ショルダーバッグを肩にかけた自分がいる。窓の外には木造二階建ての校舎とアスファルト舗装された校庭と妙に姿勢の良い小柄な爺さんが掛け声をかけている。校庭の桜木の葉は落ちているが、犬が一匹飛び跳ねている。目の前に裏門のスチール製の扉があり、汚いセーターを着たガキどもが顔をくっつけて開門を待っている。そうだ、今は朝の午前七時二八分だ。学校での最優先課題は校庭での遊び場の確保。つまりは学校でのオフの生活、当初から遊ぶための空間で透明。

明滅する校庭の裏門から自分の脳髄が始まる。それ以前の置き去りにされた自分は鉄筋校舎の屋上にいて、曇天の滴に垂れ流されて下水に溶け込む。
真っ暗な下水管を抜けるとそこにまた自分の部屋が見える。

 自分の部屋から眺める窓の外はあの古本屋の店内だ。アルファベット順に作者論が並べられている。外はニューヨーク。なぜかハドソン川の向こう岸に大きくてそっくりな二つのビルが並んで見える。そのビルのほんとんどの窓に灯りがともっている。
 感懐に耽っているとあのショルダーバッグをした初老の男がガタゴト扉を開けている。書棚のZ欄の下の低い台に平積みされている白い本を手に取ってながめている。
白い本は俺の書いた本だ。世界に一冊しかない俺の本だ。売り物ではない。俺は部屋にいるはずなのだが、眼鏡のフレーム越しに男を睨みつけ「俺が書いた本だ。聞かなくたってお前の言いたいことは分かる。」「売りものではない」。そして自分の歌を歌いだすのだ。「富ヶ谷小学校を卒業し、上原中学に進学し」。初老の男は後ずさりしながら店を出て行った。せいせいしたはずなのだが、数分もせずまたあの男が店に入ってきた。自分の部屋から眺めているだけの俺は、店番のおばさんが三五〇〇円であの本を売ってしまうのを部屋の窓から見ている。

そして、知らない間に また、ニコライ堂の坂の上に立っているのだ。
  



散文(批評随筆小説等) 白い本 Copyright ……とある蛙 2011-12-06 10:23:10
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