アイロン、アイロン台としわのあるシャツ
はるな


田舎のモーテルは都会のそれと比べものにならないくらい広い。(そして安い)。どことなく過剰装飾でふるくさい(でも清潔な)クロゼットやバスタブ、けばけばしい色の使い捨てのアメニティ。プレッサーとアイロンまであった。だからもちろんアイロン台も。


アイロン台。うちで、夫のシャツにアイロンをかけていると、自分が夫によって作られたもののような心持がする。それは不幸を包んだ幸福だ。あるいは―諦念に似た充足。
わたしの体を作ったのは夫なのだという気持ちになる。夫はわたしの体から少女をすっかり追い出してしまったのだ。ひとりの女の子の体から少女が去ってしまうと、それはまったくべつものの体になる。ということは、わたしは身を持って知った。死ぬまで少女が居座り続ける体があることも、出て行った少女はそれでもときたま戻ってきて―望むと望まざるとにかかわらず―わたしにいくつかのことを思い出させようとすることも。

幼いころ、アイロン台は幸福なものに見えた。実家のそれはうすい緑色の布がはられていて―ぴん、と―針金のような足がついていた(折りたためるようになっている)。
母がアイロンを掛けるのを好んでよくみていた。しめった布のうえをなめらかにすべる鉄。アイロンそのものは旧式のとても重たいもので、この世のしわをすべて直すようにものものしくあった。その重たい―熱い―鉄のかたまりを、まるで自由にすべらす母。そして、アイロン台。いつでもぴんと張られた、あの、うす緑色の布。手触りまで覚えている。静かで、いつもつめたくも温かくもなかった。


でもいまになって思うのは、しわのあるアイロン台などないのだ。そして誰も―誰ひとりとして―アイロン台にアイロンをかけようという人もいない。


それは何かに似ている。この世のなかの多くのものごとに似ている。


夫はわたしの体を作った。わたしはわたしの体を使う。
わたしはそのモーテル―田舎のモーテル、広くて、安い―のアイロン台を、使ったことがない。あんな場所でいったい誰がアイロンをかけるんだろう?どこかの夫婦が、昼間のキッチンにいるみたいな気持ちでシャツのしわを伸ばしたりするんだろうか?
あそこで―田舎のモーテルで、彼のためにアイロンを使おうなんてまったく考えつきもしなかった。アイロンとか、シャツとか、シャツのしわとか、そういうものは、夫のためのものなのだ。生活のためのものなのだ。そして、一般的には浮気と呼ばれるその行為のあいだ、同じ部屋に生活の匂いの居座る不自然さ。
でもその不自然さは、わたしに罪悪感を与えはしない。だって、夫はここにいないもの。わたしは、24時間夫といられるわけではないもの。365日まいにち、彼と会えるわけじゃないのと同じようなことだ。


致死量の幸福を舐めてしまったのだ、と思うようになった。
すっかりしわの無くなった夫のシャツたち。いたいたしく白く、そっけなく、つめたいシャツたち。洗い立てでは、夫の匂いさえしない。
このほんの数年で、致死量の幸福を舐めてしまったのだ。生も死も、仕方のないことであるなら、わたしはせめて、夫に清潔な服を着せたい。でもそうして夫が服を着て出て行ってしまえば、すぐに少女がかえってきてしまう。わたしは一人では何も、成り立つことができない。
アイロン台と同じだ。
いくら完成された佇まいであっても、いくらぴんと布を張られていても、あれは、しわくちゃの衣服がなければ意味をなさない。悲しみを食べる獏のようだ。


おそろしいことは―みんなだれかのアイロン台なのだ。満たされない思いを受けることでしか満たされることができない。悲しみを知ることでしか喜びを判別できないような―戦いのなかを泳いでいるような―そうとは知らずに、ずっと。
みんなそうだ、みんな少しずつ、わたしは不幸にしているような気がする。田舎のモーテル、アイロン台。そして知らない誰かのかなしみ。やわらかに匂いたつ生活、夫のしらないわたしの性交、家出癖の少女、そしてどこかわたしの預かり知らぬところでアイロンを掛けているであろう、彼の妻。



散文(批評随筆小説等) アイロン、アイロン台としわのあるシャツ Copyright はるな 2011-12-06 02:23:01
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