定義を破るーーー詩についてーーー
yamadahifumi

 詩とは何だろうか?詩の意義とは何だろうか?その意味とは?・・・・こんな朝日新聞の三面辺りに載っていそうな議題を打ち出してきたのは、この問いに答えるためではない。この問いを破壊するためである。詩人は、詩とは何か?と問うてはならない。その問いに大して絶えず、詩を書くことで答え続けなければならないのだ。・・・惑星の運行に大して、ある理論A(万有引力とか相対性理論とか)が対応するとする。この理論は惑星の運行に大して正確に記述する。・・・だが、惑星の運行は別にそれに縛られる必要はないのだ。惑星の運行に対して理論が追随しなくてはいけないというだけである。・・・次の瞬間、未来の一瞬間に自分達が考え出した理論を、惑星の運行が破ったとしても、理論家がそれに文句を言う筋合いはどこにもない。・・・ただ理論家はその新しい運動を補足するべく、新たな理論を生み出すよう努力するだけのことである。

 こんなことは当たり前のことである。惑星がぐるぐる回っているのが、一々アインシュタインの目をうかがいながら回っていると誰かが主張したらバカバカしいだろう。そうではなくアインシュタインの脳髄の運動がただこのぐるぐるに追いついたのである。それだけである。・・・だがこうした事は他の様々な領域において馬鹿話ではなく、まじめにとりあげられることは実によくあることなのだ。ここ最近、いやずっとーーー詩とは何か、その定義とは何かーーーいや、もっと、もっと、ーーー実存とは何か、人間とは何か、人生とは何か、ーーーという事が言われてきた。だが別にそんなものに縛られず我々は一つの人生であり、人間であり、また一つの詩を書いて良いのである。当たり前の事だ。惑星の運行がアインシュタインを気遣う必要はない。詩人はどこまでも詩人であれば良い。自分が好きな詩を書けば良い。自分でこれが詩だと思うものを。・・・・こんなことは当たり前だ。だが果たしてそうだろうか?・・・僕らは大学の授業において、詩の雑誌において、様々の書籍、情報、インターネットによって、様々な定義をなされて、そしてその枠組みの中で動き回ろうとしていないだろうか?・・・詩らしきものの定義を、自分の外部にある詩の定義に照らし合わせて、ああ、これは詩だ、と安堵していないだろうか?自分で詩だと思えるものを書けず、その代わりに外部にある客観的な詩の定義、詩の形式に合わせて詩を書いていないだろうか?自分が詩だと思えるものを書けないために?・・・繰り返し言うが、惑星はアインシュタインの理論など気遣う必要は全くない。それはぐるぐると勝手に回れば良いのだ。・・・詩は一つの花でなければならない。そして花は花の定義の事なんか考えずに、咲き誇れば良いのだ。

 現代の詩というのはその殆どがーーープロの詩であればあるほどーーーそうした形式、近代にあまりに偉大(と見える)な詩人が現れたために、その形式を模倣したか、延長線で書かれているーーーように僕には見える。だが時代が変われば詩も変わる。詩心は一つだとしても、時代が変われば詩人の内部にも変化が起こるので、自己を発現させるために、彼が全くそれまでと違う変わった詩を書くのは必定だろう。・・・だが現在では社会に対応できず、詩もまた産業と同様に古い構造を保っている。我々はもっと自由であって良いのだ。我々はもっと自分を開花させてよいのだ。・・・僕はそう思う。過去の権威、過去の偉大な詩人の事は気にしなくて良い。なぜって彼らもーーー過去の偉大な詩人達もまた、自己を開花させ、古いものを打ち壊し、新しいものを作ったからこそーーー偉大なのだから。彼らの形式を今私達が壊したって彼らは怒らないと僕は思う。なぜって彼ら自身が正にそうしたことの先駆者なのだから。
 
 ーーーちなみに今偉大な詩人と呼べるのは神聖かまってちゃんの「の子」一人(ロックバンドの作詞作曲者)だと思っている。


散文(批評随筆小説等) 定義を破るーーー詩についてーーー Copyright yamadahifumi 2011-12-05 12:04:51
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