「こじつけ」、それから問いの終わり
kaz.

多くの人たちは、倫理的な問題があることを主張し、新たに倫理を創造し、強調することで全てが解決したかのような錯覚をもってしまいがちだ。だがしかし、倫理の退廃が主張された後、倫理を強調するという解決に終始するようでは、何ら問題を解決したことにはならないだろう。

実際、倫理的な問題がある、と主張される場合において、文面通りに受け取れば、その倫理的な問題を解決するべく、何らかの規範設定や道徳的行為を試みることが大切である、ということになるが、実際はそうではなく、その問題が“生じた”ことに対する責任を追求していることがほとんどである。

多くの人は、(倫理的な)問題の解決のための働きかけと、問題そのものの解消を勘違いしてしまう。前者は実践的で、合理的な選択が求められる。後者は、問題そのものを分析することによって、問題の意味を摩り替えたり、相対主義によって問題との距離を置いたりする。問題の出所、つまり倫理そのものへの批判を行うのである。

構造上の同型性が見られるものとして、存在理由への問いが挙げられる。「私は何故存在しているのか?」と問い、こじつけであれ、それに何らかの回答を与えることができた人は幸運である。これは前者に該当する。問いそのものの意味を分析し、問いが何のことを言っているのか、それぞれの語が何を指しているのかを分析的に読み取り、形而上学的な解答を与えたり、錯誤に陥っていると断定したりするのは、批判的態度(後者)である。

したがって、前者の実践的な態度によってこじつけであれ何であれ回答を与えることが、倫理的な問題に対しても同じように適応されていると考えられる。その際、とんでもない話ではあるが、何らかの規範設定や道徳的行為の試みが、その「こじつけ」と同じ水準で考えられていると言わざるをえない。もしあなたが、ネット上の掲示板で見られる、規律に関する議論や、社会問題についての専門家の対話に、何の面白みも感じられないとすれば、それはきっとこの「こじつけ」の感覚があるからに違いない。

いずれにせよ、実践的な解決を図ることと、批判的な解決を図ることのどちらも、結局のところ“問いを終わらせようとする”姿勢であることには変わりない。問題の解決と、問題そのものの解消は、どちらも問いが問いであることをやめる点で、問いそのものが終わっている。問いが終わるということは、問いが失われ、死が与えられるということなのだ。そのとき、残るはずであったあらゆる問いと答えの形式も、もはや形骸にさえならず、失われてしまっている。問いを終わらせた私たちには、問うていたという事実さえも残らない。忘却の彼方に投げ出されてしまうのだ。

倫理的な問題に、これと同じ事態が適応されたとすれば、倫理的な問題は告発され、解決されたまま、それが問題であったことがすっかり忘却され、新たに創造された倫理または問題そのものを申し立てしていた倫理が、かつてそれを告発したらしめた“倫理”として残るであろう。だが、それはもう問いとしての形式を失ってしまっているのだ。多くの人たちは、問いとしての形式を失った形でしか“倫理”を語ることができていないために、潜在的に誤解を抱えている。それを大々的に告発しようとは思わないが、ひょっとすると私と同じ違和感を抱えた人にとっての、何らかのヒントにはなるかもしれない。


散文(批評随筆小説等) 「こじつけ」、それから問いの終わり Copyright kaz. 2011-11-19 14:01:55
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