根津界隈
salco

 根津は好きな場所だ。
 谷中、千駄木と併せて一括りに「谷根千」などと女性誌でもてはやされ
たが、谷中のように下町情緒よりも墓石の数が圧倒的なわけでもなく、森
鷗外が住んだ事でもわかるように、千駄木は瀟洒な山の手だ。

 防火の要請か寺の造作は近代的になる一方だが、その一端に押し込めら
れた形の住宅地には、昭和期までの佇まいがまだ残っている。戦前の木造
家屋や長屋もある路地はひっそりしていて、駅前にマックもない。
 出店を阻むのは流入人口の少なさより、網の目のような地権・居住権だ
ろう。点在する雑居ビルも、フロア三十席の確保は難しそうだ。道を渡っ
た所にあるモスバーガーは2階席だけ、言問通りを上野の森方面へ上がれ
ば、プレジャーハウスめいたデニーズや重厚な外装のマンションがあるも
のの、坂下は小店ばかりだ。地主が資産をとりまとめて利鞘を稼ぐには、
ひと世代待たなければならない。改築を許されないボロ屋で老人世帯が頑
張れるのも、あと十年がとこだろう。
 この通りはやんごとなき方々の抜け道でもあり、上野方面へお出掛けの
際にはわらわらと警官が配備され、全ての信号機を赤にして静やかな車列
が通る。表の昭和通りと違い交通量が少ないから規制の手間が省け、より
安全なのだろう。千載一遇の雅子妃はよく見えなかったが、極上のサスペ
ンションが奏でる走行音には感激した。てか、音がしなかった。


 駅前で言問通りと交差する不忍通りを少し歩けば根津神社。ここには日
露戦争後に鷗外が奉納した砲弾の台座があり、長男於莵オトの回想録によれ
ば、離婚後久しい赤松登志子と元姑の峰が偶然の再会をした場所でもあ
る。
 その裏手の団子坂を上がれば住居跡に、区立の森鷗外記念室が建ってい
る。漱石と並ぶ文豪の記念館が区立なのにもがっかりだが、昭和三十七年
竣工になる茶褐色のハコは、役所の分室めいて興ざめだ。土塀は関東大震
災で崩れ、観潮楼は戦前に失火で、残った家屋も空襲で灰塵に帰した。
子ども達のエッセイに出て来る根府川石と、馬丁と並んだ写真の敷石が残
る。「崖下」の眺望も、でんと立ち塞がる白亜の中層ビルで望むべくもな
い。
 それでも通りから一本入ったここも、目を閉じれば木々の葉擦れの向う
に往時の生活音が聞こえそうなほど静かだ。
 夜更け、女遊びをして来た酔眼の於莵に自ら閂を開ける父親。幼い茉莉
がつぶらな目を見開いて庭でぼーっと立ち尽くし、極北の杏奴アンヌは転落して
隣家の庭に転落し、弟をいじめた悪童を追いかけ回す。中年のルイは大学教
授の兄と分けた跡地でささやかな書店を営み、配達の自転車を漕いでい
た。


 坂下のまとまった土地は寺院が所有している。寺だけのブロックはもう
谷中。一層閑寂として、どこも出入り自由だから散策にはもってこいだ。
 そんな一角を通った時、感応寺という妙な名前に惹かれて門脇のプレー
トを読むと、澁江抽齊の菩提寺だった。巨石をスライスしたような墓碑に
は、あの鷗外が同じ場所に立って書き写したのかと感激したものだ。
 子孫に手紙をしたため面会を求めてまで、無名医の一挙手一投足を知ろ
うとした情熱と執念については窺うべくもないが、決して交差し得ない時
空を、「ありき」と実感できるのが嬉しかった。
 その仲介役はたいてい人ではなく、こうして遺物だ。しかも人跡の仮託
でしかない墓石なのが実に象徴的と思われた。生きている時間、生きてい
る人間というのはかくの如しだ。常に、今しかない。今にしか佇めない。
 「灰は灰に、塵は塵に」。これもファンタジーであって、死ねば微塵で
さえない。骨壷の遺灰も雨水や蒸気で黒く液化する由。大方は残存記憶の
収容器でしかない主体にカレンダーや腕時計、通信機まで携え気休めとす
る滑稽が身に沁みた。

  
        森鷗外記念室は改築の為、現在休館中。


散文(批評随筆小説等) 根津界隈 Copyright salco 2011-11-11 22:08:42
notebook Home 戻る