Kへ
A2






気づいてきたと思うけれど
とても苦しいよね、ほんとうに。
「倫理」と「倫理でない」
「堕落」と「堕落でない」
とか。
今、仮にしていることが「倫理的でない」として
もし、その経験が、後にある人を救済することになったとしたら、
その過去を「倫理的な時間」として整理できる経験は、大なり小なりあるんじゃないだろうか。
今、出会ってしまった瞬間が幸せなものだったとして
後に、とてつもない不幸な瞬間が待ち伏せていたとしたら、
幸せな瞬間が、「不幸な瞬間」として鞍替えされてしまうんじゃないだろうか。

幸せとか倫理的とか堕落的とか
瞬間で判断することに、何の価値があるのだろうと、
僕は言いたいのかもしれない。

もちろん、Kがこうした歪みに、身を置いたということ
僕は、こころから素敵なことだと思いたい。
自分の頭でひとつひとつを考えていくということに、本当に気づいていく。
簡素な言葉からひとつひとつを。
「幸福」「平和」「人生」「愛」
が、自分にとってどんな色彩を、どんな形を持っているのだろうと
考えていくということ。

先日、一通のメールが届いた。
付き合っていた女性の友人からだった。
訃報だった。
難産で、母子ともに他界してしまったそうだ。
29歳の若さだった。
九州に戻りたくて、農業を継ぎたくて、僕と別れた。
新しい人と出会い、その彼が九州転勤と決まって、おめでたと決まって
何もかも順風な日々の矢先だった。
僕にとって、身も心もささげた初めての死人となった。
家族や友人が亡くなるのと、少し、この気持ちは違うようだ。
もちろん、僕はこの混沌にいて、この状況をよく理解していない。
ただ、やっぱり考える。
もしぼくと付き合い続けていたら、同じような結果にはならなかったんじゃないだろうか。とか、
もしかしたら、同じ結果になっていて、僕がそのどん底の主人になっていたのかもしれない。とか。
ただ、ひとつ不思議な出来事が残った。
処女詩集だった。
「ガーベラ」の詩を捧げたのは彼女だった。
詩を書き始めたのも、そこからだった。
詩集に出てくる女性も、彼女だった。
巻末のぼくの写真は、彼女が撮影したものだった。
さらに、「白妙(しろたえ)」という和紙を用いて、僕は装丁してしまっていた。
神仏を備えるための紙だった。
完全に、完璧なまでに、あの詩集は死にまみれてしまった。
僕が言いたいのは
そうした偶発的な出来事を誇大することじゃなくて、
その時にしていたことが、突然なにかに変化してしまうということ。
彼女の「幸福」の選択が死に向かっていたということ。
僕の「詩集」が「死」に向かっていたということ。
瞬間では判断できないということ。


判断は、「本気」でしなくて良いのだと、僕は言いたいのかもしれない。


もちろん不安に襲われる事と思う。
僕の将来はこのままじゃどうにもならない。とか。
ここには、少し「悟り」みたいなものが、必要になってくるかもしれない。
そして、これがとても大切になってくるんじゃないだろうか。
生きていくということにおいて。

もちろん、ここに、答えがないと、僕は信じる。

もし答える人がいるのなら
×××
ということになるのかもしれない。
人はとても弱い。
だから、すがろうとする。

Kのもがきは、Kなりの答えを見出す。
それが人生観になる。
僕はエール交換をしたかったのかもしれない。

最後に「男」について。
どんどん(?)進んでいいんじゃないだろうか。
悔いることなく(?)、交わり続けて。
そこにこそ倫理なんかないし、それを振りかざすような人や世界こそ倫理は捲れ上がっているだろうから。
あのときの一夜なんか、吹雪に飛ばしてもらった方がいい。
そして、とことん進むと(飽きるまで交わると)、かならずそれだけでは続かなくなる(つまり飽きる)。
そこまでいって、それから考え初めても、良いと思う。だから、
気にしないで。





手紙、ありがとう。
とても素晴らしい言葉だった。


I wish you a joyful Chirstmas from the bottom of my heart,

A2






散文(批評随筆小説等) Kへ Copyright A2 2011-10-15 02:15:02
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