遺書にはならない足跡
セグメント
1
ここにこうして書き記すことに何の意味があるだろう。何の輝きがあるだろう。何の翳りがあるだろう。私は最早、誰に伝えることも意味があるとは思えなくなってしまった。ここで言う「誰」とは、厳密には私が私であるということを知る私の身内、友人、知人などを指す。よって、私を私個人と知らない「誰」に向けて、こうして足跡(そくせき)を遺すこと、あるいは伝えること、あるいは散らすことには何の意味もないとは現時点では少なくとも私は思えない。思いたくないのかもしれない。はたまた、私はただ自らの心情を体系立てたいだけ、整頓したいだけ、組み立てたいだけ、書きたいだけ、言いたいだけ、伝えたいだけ、吐露したいだけ、何もなかったことにしたいだけなのかもしれない。
良く、世の中では「正解も不正解もない」だとか「頑張ることや努力することに意味があるのであって結果が全てではない」だとか「嘘も本当もない」だとか、そういう如何にも「正しいこと」であるかのようで「真実」であるかのような言葉が多少の形や表現を変えて不確かなまま、撒き散らされている。そして、それを多くの人間は、たとえそうとは言わずとも心の奥底の透明なところで受け入れている、理解している、理解しようとしている、悟っている、分かっているように見えるのだ。少なくとも私には。
かく言う私もその内の一人かもしれない。それこそ「正解も不正解もなく嘘も本当もなく正しいのか否かも良く分からない」事柄だ。繰り返しになるが、私がこうしてここにこれを書き記すことに意味があるのか、正しいことなのか、真実なのか、それも良く分からない。ただ、私はもうひどく擦り切れてしまっている自覚を強く否定することは一人では不可能だ。病名など、幾らでも付けられるだろう。人間は皆、何かしらの病なのだ。体でも、心でも。あるいは、そのどちらも。人は皆、多かれ少なかれ、露見しているかどうかは別として、誰も彼も病んでいる。そう、信じたいだけなのかもしれない。自らがそうであることによって。
何もかもが曖昧で不透明な言い方、表現になることを許して貰いたい。私は本当に良く分からないのだ。今の自らの心情も、本当には何を記したいのかも、この行為に果たして意味があるのか、また、意味を欲しがっているのかすらも。
私の感情や行動を甘えだと感じる人もいるだろう。思考や性質を異質に思う人もいるだろう。幼稚な自慰行為だと笑い蔑む人もいるだろう。だが、私は本当の意味で私が私個人とは結び付かない、「誰」も私のことを知らないこの場所で一度、書いてみたかったのだ。私という苦悩とでも言うべき、あるいは悲嘆や驚愕、あるいは混乱であり困惑、あるいは生きることと死ぬこと、はじまりからおわりまでの全てを。まだこうして生きているわけなのだから終わりは書けないだろうが、私はこれを揺りかごから墓場までの心持ちで書き進めて行きたい。
さて、そうは言ったものの何から綴ればいいものだろうか。一人の人間は本当に多くの数え切れない程のものを抱え込んでいる。使い古された表現ではあるが、それこそ星の数程、あるだろう。
単純に、好きな食べ物や好きな飲み物、好きな色や好きな動物。少々複雑に、好きな異性のタイプや好きな声質、好きな音楽や好きな景色。更に複雑に、好きな家庭の雰囲気や好きな分野、好きな表現や好きな歌い方。もう少々複雑に、好きな感情や好きな感覚、好きな時間や好きな人間。いや、どれもが単純至極かもしれないし、複雑至極なのかもしれない。しかしながら好きの反対に位置する嫌いに関する事柄も存在するわけであるし、家庭環境や職場の環境、友人関係や恋人との関係、身内の問題、知人から持ち込まれる相談事、日常的な悩み、幼少時に植え付けられたトラウマ、精神的疾患、身体的疾患、金銭問題、時間的余裕のなさ、したいこととすべきことの葛藤、叶えたい夢、性的欲望、フラストレーション、知識欲、創作意欲、購買意欲、喜怒哀楽のコントロール、自律神経のコントロール、幸福を希う気持ち、絶望に押し潰される瞬間、強く頭を振っても尚に流れる涙、死を得ようという衝動、明日を強く祈って眠りを掴む切望、生きて歩いて行こうという決意。
――何故、人間はこんなにも複雑熾烈を極めるのか?
世の中は、繊細な人間では生きて行けないように創られているのかと何度も何度も何度も疑い、そんなにも自分は弱々しく、あるいは繊細、はたまたお綺麗な自分自身を気取っているだけなのかと、幾度も幾度も幾度も問い掛けている。だが最早、その質問を誰にしていいのか分からないし、分かるはずもないのではないかと思い始めているところだ。
二〇十一年の三月十一日に日本中を震撼させた大地震が起きたことは記憶に新しい。それどころか、現在も出来事は進行中と言っていいだろう。少なくとも福島県にある原発に関しては今も尚、収束の兆しなど見せてはいないし、それどころか、こうしている一分一秒の間に、放射能はゆるゆると空中に拡散し続けているのだから。たとえ福島県や東北、関東にいない人々でも全く身体的に影響を受けていないとは言えないのではないだろうか。
目視出来ない放射能のことであるし、私にはそういった分野での専門的知識などは皆無に等しい。私に出来ることは垂れ流されるインターネット上でのニュースを追い掛けて読み、一喜一憂し、自らの身を守る為に行動するのみである。自らの身を守る為に――そうは言ってみたところで出来ることなど、それこそ皆無に等しいのだ。今回の出来事に関しては人の数以上に様々な影を誰もの心に落としたのではないだろうか。私は明らかに震災以前と以後で根本が変わってしまった人間の一人だ。
しかし、私は関東に住む人間であり、実質的に被災したわけではない。家は無事だし、ガスや水道や電気にも問題はない。私以上に大変な環境に今も尚、身を置いている方々は本当に沢山いることだろう。他人事のような書き方になってしまうことを許して貰いたい。他意はないが実際に他人事であり、気持ちを推し量ることですら、私にはどうやら偽善めいたものすら覚えてしまうのだ。
原発の施設のある場所に住んでいた人々の家が津波によって目前で流され、仮設住宅の建設もなかなかままならず、衣食住に困り、犯罪が増え、避難勧告が出された地域には置き去りにするしかなかった牛や豚などの家畜動物がいて、娯楽やプライバシーに欠ける生活を強いられている。そのような人々の状況を私のような一個人が実質的に想像することなど出来るだろうか? テレビや新聞といったマスメディアはこういう時にこそ力を発揮すべき媒体であるように思うのだが、肝心なことはまるで意図的に告げないようにしているのではないかとすら思えてしまうのは私の被害妄想なのだろうか。原発の施設に水を掛けて冷却しているといった辺りの現況の時は、割合に細かく情報が発信されていたようにも思う。私は主にインターネットを介してニュースを読んでいた為、その折にテレビや新聞がどうであったかどうかは分からないのだが。
とにかく、まるで情報管制が敷かれているかとも思わせる現在の情報の少なさに私は呆れ、辟易し、不安を覚えている毎日だ。当初の頃は風評被害だと言われていた当該対象地域の生産物だが、今でも同じことが言えるだろうか? 果たして真実、風評であると誰が自信を持って正しく言い切れるだろう。仮にこの国のトップがそう告げたとしても私は信じられないし、多少乱暴な言い方をしてしまえば信じる気もない。少しでも震災以降の国の状況に関心を持ち、インターネットなどでニュースを追い掛けている人間ならば分かると思うが、今のこの日本という国が如何に危機に晒されているかどうかが良く分かるのではないだろうか。
事は空気中に広がり続けている放射能による被曝だけには決して留まってはいない。留まるはずもない。それによる野菜や家畜などの生産物が受ける被害、それを食物としている私達人間の被害、海に放たれた放射性物質を多量に含む汚水、そこで暮らす魚類、それを食べる私達人間の被害、被災した人々への様々なる生活保障と災害補償、復興の為の人員と財源、原発施設で作業をする人間、それを指揮する人間、将来に渡る白血病への恐怖、財源確保の為の増税への懸念、生産地の偽り、輸出入に係る諸外国との問題、農業や漁業を生業とする人の生計、雨の日の不安、外出時の不安、食べ物や飲み物への不安、明日への不安。
また、震災によって生じたことのみを日々、政治家らが追うわけにもいかない。毎日、何かしらの問題が、犯罪が、法律が、対処を求められる。皆、多かれ少なかれ大変だ。皆、多かれ少なかれ苦しんでいる。日常に追い詰めらている。それでも生きている。
頑張ろう、日本。復興。募金。節電。おおいに結構だ。誰だって元の通りの生活に戻れるならばその方が絶対的に良いに決まっている。私もそうだ。電車の本数も元の通り、電車内や駅構内やデパートや街の明るさも元の通り、食べ物や飲み物に放射能の懸念など覚えず、雨の日も風の日も同様、安全なお茶がありますなどという但し書きを店先で見ることもなく、外食控えもなくなり、壊れた家屋も流された家屋も死んだ人間もいない。何もかもが元の通り、何もかもが何もなかったと同じ状態に戻る。それならばどんなにか良いだろう。一億回祈ってそうなるならば私は一生涯掛けてもそうするだろう。だが、そんな都合の良い夢は起こるわけもない。誰も彼もがこの今の状況に向き合い、生きていかねばならないのだ。
しかしながら批判を承知で言うが、私には生命の絶対的尊重というものや自殺が批難される理由が、少なくとも今は分からないので、今のこの状況に、国に、自分に向き合って生きていかねばならないと思っている人間のみがそうする必要があると捉えている。この現状に耐え切れず、死にたいと思う人間がいても最早、全く不思議ではない。食べ物が安全か分からない。飲み物が安全か分からない。雨に打たれても大丈夫か分からない。外を歩くだけで徐々に被曝している可能性が否めない。将来、今回のことが原因で白血病に罹って苦しんだ末に死ぬかもしれない。毎日、何かしらで誰もが疲れている現状に、頑張ろう日本、頑張ろう東北と書かれた旗や貼り紙や食物が並び、目に入る。あたかも強迫であるかのように一日中を通して節電を強いられる。そのような現況に疲弊し切っている人間に、頑張れ、頑張って生きてくれなどと私は言えない。相手がどんなに親しい友人であっても、おそらく同じではないだろうか。
実際、私自身は毎日、放射能のことを気にしている。外出するたびごとに被曝しているように思っている。食べ物は東北産のものはほとんど購入出来ず、関東産でも悩むようになった。水は水道水を飲んでいるが、それで良いのかどうかたびたび自分に問い掛けている。雨の日の外出は非常に気が進まない。外国に逃亡したい気持ちもある。だが、私の友人にはここまで気にし、思い悩んでいる人間はいない。多少は気になるが、なるようにしかならないし、今、気にしすぎても仕方のないことだというのが概ねの意見だ。実家住まいで自分が料理をすることがない友人は、食卓に並ぶ料理がどこの野菜で作られているか気にしたことは私に聞かれるまでなかったという。私にはとても信じることが出来ない。本当に、気にしていなかったのか。本当に、気にならないのか。私は長年の友人を少し疑ってしまったほど、この日常に溢れている放射能を毎日毎日毎日、気にしてしまっている。これは異常なことなのだろうか?
見渡せば、外食をしている人々は割合に多く見掛ける。私も全く外食をしないわけではない。だが、元々、外食の頻度が低いせいもあるのだが、月に一度、あるかないかになっている。小腹が空けば、コンビニエンスストアでツナおにぎりを購入することもある。けれど、何の抵抗もなくそれを口にしているとは決して言えない。スーパーの食料品売り場で、お惣菜や寿司を見ている人々も割合に多く見掛ける。
しかし、国産の表示だけでは私はもう惣菜を買うことは出来ない。寿司や海産物など以ての外だ。そんな私がおかしいのだろうか?
このような日常的ストレスに晒された中で、私は近頃、ひとりきりだという自覚を強く強く覚えている。覚え続けている。人生がまるで独り言のように思えて仕方ない。ありふれた表現ではあるが、私がいなくても、私がいなくなっても世界は今日も明日も明後日も廻り続ける。私など、まるで初めからいなかったかのように。ひとり暮らしのせいもあるのだろうか。私は今まで友人に恵まれていると思い、幸せだと思っていたにも関わらず、こんなにもひとりきりだと思ってしまっている。どうしてこのようになってしまったのだろうか。考え続けた末、三月の震災以降、ゆるゆると私の根幹が変化してしまったのだと、最近になってようやく私はそうと理解した。気が付いたことが幸福か否かは知らない。
2
私は二十年以上の人生と呼ぶには未だ短いのかもしれないそれを生きて来て、さびしいと思ったことはなかった。否、強く強く思ったことはなかった。あるいは思ったことがあったとしても、すぐに打ち消していたに違いない。
人間は皆、ひとりきりであり個の生物であり、コアセルベートのようでは決して有り得ない。生まれ落ちた時に個であるならば死に行く時も個であることに他ならない。たとえ、愛する人が、友人が、家族がいたとて、それは同じことだ。生まれる時も死ぬ時も、誰とも一緒ではないし、誰も連れて行けない。誕生日を幾度祝われても、命日を幾度祈られても、人間が個別の生き物であり、ひとりきりである現実も事実も、鏡のかけらひとつ分すら変わらない。何も、変わらない。
人間が個であり、生き物として本当の意味で交わることの出来ない命であること、自らの本質的問題には最終的には自らしか向き合うことが出来ない、解決は出来ないこと、身体的病、精神的病に立ち向かうのは最終的には自分ひとりであるということ。そういった考え方を私は数年前に知っていた。だが、事実的、体験的なものとしてはおそらく全くと言って良いくらい分かってはいなかったのだろう。それが、今年三月の震災以降、少しずつ浮き彫りになり、最近になって痛感するに至っている。
不幸自慢をするわけではないと前置きさせて頂くが、私の家庭環境は多分に良いとは言えない。中学校に上がるまではそれが普通かとすら思っていたが、高校に入って、周囲の友人と互いの環境を話す機会を持った時、ああ、自分は違っていたのだと静かに思った瞬間を今も強く覚えている。その環境については後程に記述するか否かは今は分からないのだが、とりあえずここでは省略させて頂く。しかしながら、最近になって私は思う。何故、あの環境で「さびしい」と思うことなく自律神経を保たせて来られたのか。また、そこまでの神経を持ちながら、何故、ここに来て「さびしい」と思ってしまったのか。それほどまでに震災は負荷を私に与えたのか。実質的には私は被災していないのに? 衣食住に困ることはないのに? 怪我もしていないのに?
だが、目に見える怪我だけが全てとは言えないのかもしれない。また、苦労は比べるものではないのかもしれない。世の中、私よりもっともっと大変で生きるにも
苦しい人々が存在するだろう。福島では、今も不安に押し包まれている方々が本当に多くいるだろう。だが、乱暴な言い方になってしまうが、それは直接的には私とは関係のないことなのだ。もっと言ってしまえば、私が被災していないからと言って、苦しくないことが正しいわけでもなければ、苦しいことが正しいわけでもない。
ただ、震災以降、少しずつ車輪が軋みを上げるように私のさびしさや苦しみは浮き彫りにされ、日々を不安に苛まれ、病院嫌いの私がメンタルクリニックに通い服薬することで何とか日常を日常たらしめている。そうあろうと努力している。それだけだ。ただ、それだけのことだ。
誰が苦しく、誰が悲しく、誰が生きることにあがいていようとも、本質的に捉えて言い切ってしまうことが許されるならば、それはその本人の抱える事柄であり、第三者からしてみれば無関係と言っても良いくらいの出来事に他ならない。よって、私がこうしてさびしく苦しく、ぽっかりと浮かぶ月を見上げては上階の情事が聞こえて来る部屋に帰りたくなくて泣くことも、半年以上のそれがきっかけによってメニエール病の疑いが掛かって通院が始まったことも、引っ越しをしたくともそこまでの資金がないことも、精神的不安を緩和させる為の薬を飲めば資格取得の為に通っている学校での授業中に眠たくなってしまい支障をきたすことも、作家になりたくてあがいていることも、一切合切、何もかもが、第三者からしてみれば正直なところ、無関係なことなのだ。
さびしいなら慰めてあげる。話を聞いて欲しいなら聞いてあげる。同意して欲しいならしてあげる。アドバイスが欲しいなら与えてあげる。お金で買えるもので欲しいものがあるなら買ってあげる。電話が、メールが、チャットがしたいならしてあげる。出来る範囲で、友人はその人にしてあげたいと思うだろう。その人が、自分自身で自分に対処出来ている内は、まだ良い。世の中の大体の人間はおそらく、そうやって今日も明日も明後日も生きているし生きて行くのだ。したいことと、すべきことの狭間でバランスを取りながら。仕事をしたり学校に行ったりゲームをしたり本を読んだり買い物をしたり。少しずつ我慢をして、少しずつ昇華させて。
だが、その人が自分自身で自分に対処出来なくなって行ったとしたら、どうだろうか。大体において、急激にそうなるということはほとんどないだろう。私は医師でも専門的知識を多く持つ人間でもないので推測にしかならないが、昨日までごく普通の生活をしていたのに、今日になって急に電車に飛び込む人間がいるだろうか。ゼロではないだろう。この世は可能性の世界なのだから。だが、その場合であっても、急にそうなったとは考えにくい。軋みは、ごく微量ずつであったとしても降り積もって行っていることが通常ではないだろうか。
以下のようなことはおそらく有り得ないが、ストレスフリーの生活を送っている人間が翌日に起床し、そうだ今から手首を切って死のうと思うだろうか? おそらく否、だろう。全ての人間に出会い、全ての書物を読み、検証したわけではないから、推量の形容詞が多くなってしまうことがもどかしいが。
話を戻そう。自分自身に自分で対処出来なくなって行った人間に、他者は一体何が出来るのだろう。医学的見地からすれば、通院、服薬、カウンセリングなどがある。確かに、それらは有効だろう。実際、今の私がそれに当て嵌まる。私が行(おこな)っていることは通院と服薬だ。今回が初めてのことではない。これは、完治するのだろうか?
それについては後に触れるとして、通院、服薬、あるいは加えてカウンセリングを施したとして、本当に人は自分で自分に対処、コントロール出来るようになるだろうか。
数週間前までの服薬していなかった私と、現在の服薬を始めて数週間経過した私とでは、確かに明らかに違いがある。急に泣き出すことはほとんどなくなったし、資格取得の為の学校にも何とか通えているし、とにかく得体の知れない不安に苛まれて何も出来なくなったり、あるいは友人に得体の知れないメールを撒き散らすこともなくなった。だが、根本にある感情は消えない。不安、さびしさ、混沌、困惑、不満、悲しみ、怒り、死への誘引。勿論、根本にある感情はこれらだけではない。当たり前のように、嬉しさや感動、喜びや期待もある。
そもそも、私は感情や行動にプラスやマイナスの形容、あるいは記号を付けたり、正負で表すことが嫌いなのだが、明らかに前者は負であり後者は正であるだろう。私がそういった表現を嫌うことに明確な理由はないようにも思うが、良く良く思い返してみるに、高校の時の担任教師が頻繁に使用してしたことに起因するのかもしれない。何かに付けては、プラスだとかマイナスだとか言っていたように思うので、知らず嫌悪を覚えていたのかもしれない。
少し前から思っていることは、思考や行動は「ただ、それだけ」のことであって、そこに正負などなく、正負を付加すること自体が無意味で愚かだと、そのようにも捉えている節がある。これらは蛇足かもしれないが、とにかく私は私として私という人間の整頓を行いたいが為にこれを書き記しているのであって、処々にそのような箇所が見受けられるかもしれないが、ご容赦願いたい。表記揺れなどもあるだろう。私は少なくとも現時点において、これを作品として仕上げる意志はないのだ。このワードのデータこそが私において蛇足と成り得ているかもしれないのだ。最早、何が必要で何が不必要、あるいは蛇足であるのか私自身、良く分からないのである。
閑話休題。通院して、医師と少し話をする。症状を伝える。症状を緩和させる薬が出される。服薬する。薬が自分に合えば、数日、あるいは数週間で症状は落ち着いて行く。薬が合わなければ再び病院に行き、医師にその旨を伝える。以前とは違う薬が出される。
本当に死にたい人間は、誰にも言わずにひっそりと死ぬと聞いた。では、医師も含め、誰かに言ってしまう人間は本当には死にたくないのだろうか。あるいは、死への想いが本当ではないという証明なのだろうか? また、あるいは、本当は生きていたいがゆえに引き留めて欲しいのだろうか? 今の私には良く分からない。
だが、本当に死にたい人間はこうして誰かに言ったりせず黙って死ぬと言われて、私の感情に否定をぶつけられたように思ったことは事実だ。紛れもなく。ならば、私の死にたいという気持ちは偽物なのだろうか。純度の低い、紛い物なのだろうか。宝石にたとえられるような感情では決してないが、インクルージョンを多く含む使い物にはならない、取るに足らないものなのだろうか? そう思って泣いた私がいたことは事実だ。紛れもなく。それなれば黙って死ねば良かったのだろうか。そうしたら、あの子は本当に本当に紛れもなく真実、死を考えて実行してしまうほどに悩み苦しんでいたと「評価」して貰えたのだろうか。いや、私は「評価」して欲しかった、あるいはして欲しいのだろうか?
3
「評価」とは少し違う気がする。ただ、私は分かって欲しかったのだ。本当に私が死を想うほどに苦しいということを。それが単なる甘えだと評されるならば、それはそれで仕方のないことだ。人の価値観は多種多様で、考え方も判断基準も全てが異なり、それこそ私と全く同じ価値観の人間など、おそらくこの世にひとりだっていないのだから。
だが、多くはないかもしれない私の友人の中に、ひとりだけでもいい、私の苦悩とでも言うべき悲嘆とでも言うべき絶望とでも言うべき薄暗い部分を否定せず、受け入れるとは言わないまでも、たとえ表面上だけでも理解してくれる人が、いはしないだろうか。
本当の意味で相手のことを分かるなどということは生涯を懸けても不可能だろう。それを少し、さびしいとは思う。だが、それは仕方のないことだ。繰り返しになるが、人は揺りかごから墓場まで個別の生き物で歩いて行くのだから。喜びや悲しみを幾度も幾度も繰り返しながら、人間は自らの埋まる墓穴(はかあな)を掘るように人生を歩んで行くしかないのだ。
どうしたら分かって貰えるのだろう。私が本当に苦しいということを。時に死を想うほどに悲しみに溢れてしまうということを。それを薬でおそらくは抑えて生きているということを。医者に話すことと友人に話すこととは訳が違う。医者に話すことは、薬を得る為という目的が多分に大きい。なるべく正確に自分の現状や感情を伝え、それが一時的にでも異常と判断されるようであるなら、それを抑制、あるいは緩和する為の薬を出して貰わなくてはならない。生きて行きたいのならば。以前、友人に言われたことだが、また先に記述したことでもあるが、死にたいのならば誰にも話すことなく黙って死ねばいいのだ。医者でも友人でも、死にたいと告げられて、じゃあ死ねばいいのに、と答える人間はきっといないだろう。沈黙してしまう人はいるかもしれないが。
正直に言えば、私はひどく疲れている。約五年程前から現在に至るまでの間、不定期的に症状を繰り返しては死と生の間で揺れ動き、そのたびごとに何かをなくして何かを得て、惰性のようなものにも助けられながらこうして生きている。それに一体、何の意味があるのだろう。
某ゲームで、生きることに意味なんてないんだと言い切った主人公がいる。たかがゲームの話と思われるかもしれないが、私は今もその言葉が非常に印象強く胸に残っている。今の私にはその言葉を否定も肯定も出来ないが、確かに生きることに意味などないのかもしれないし、求めてはならないような気すら私はしている。求めるから疲れるのだ。最初からありもしないものを。
思うに、自殺を考えたことのない人間に、自殺を考えている、あるいは考えたことのある人間の気持ちというものは分からないのではないか。人間は、自らが体験したこと以外のことには鈍く、理解しづらく創られているように思える。無論、私も含めてだ。百聞は一見にしかずという言葉もあるように、幾ら聞いても分からないことはあるし、一度見れば、経験すれば、たちどころに分かることがあるのではないだろうか。
私の友人には自殺を考えたことのある人間と、自殺を考えたことのない人間がいる。後者に至っては私は本当なのかどうかと疑ってしまうくらい、信じ難い存在である。本人がそう言うのだから信じる他ないのだが、三十五年程を生きて来て、本当に一度も自ら死のうと考えたことがないのだろうか。また、そのような人間に私のような人間が相談をしたところで、表面上の感情だけでも理解して貰えるのであろうかという疑念が失礼ながらなくはない。しかしながら、不定期的に繰り返される私の症状に伴う暗い話に多忙の中、時間を割いて付き合ってくれることには素直に感謝しているし、真実、ありがたいと思っている。
自殺を考えたことがあると、私の話を聞いて告白してくれた友人もいる。時間や環境に追い詰められ、もう死んでしまえば逃げることが出来る、考えなくて済む、終わりにすることが出来る、そう思ってマンションのベランダから幾度も下を見たと。他の友人の話では、半分以上の体がベランダから落ち掛けたところで家にいた家族が偶然見付け、引き戻されたこともあると。
現代は、検索するということがインターネットによって容易に出来る時代だ。死にたい、という言葉ひとつで幾らでも記事がヒットする。ブログや掲示板に、苦悩を綴る人間が本当に数多くいる。つい最近のことだ、私自身もそういった掲示板に書き込み、返事を貰い、気持ちを緩和させることが出来たのは。だが、私のように思い留まった者もいれば、メーターの針が振り切れるように死んでしまった者もきっといるのだろう。年間の自殺者の数は年々増加の一途を辿っているし、人身事故により運転を見合わせていますというアナウンスが駅構内に流れることも決して珍しくはない。自殺を取り上げた、あるいは多少なりとも織り込んだ書物やゲームも多く存在する。最早、自殺が特別なことだとは少なくとも私は思えない。
これだけ自分が苦しんでおきながら以下のように言うことも何か違う気がしなくはないが、死にたい人間は死ねばいいとも思う。どうやって、その人を引き留めればいいというのだ、本当に死にたい人間を。その人の進む人生に、希望も歓喜も約束出来なければ、絶望や悲嘆の可能性を全否定することも出来ない。もうやめたいと願う人間に、頑張れと励まし、エールを送り、世に引き留めることが本当に正しいことだろうか。間違いとは言わないし言えないが、正しいとも私には言えない。
だが、私のような人間と出会った、あるいは今、出会っている方は、どうか出来ればその人の話を聞いてやってほしいと願う。本当には死にたくない、本当は将来の夢がある、本当は生きていたい人間が、時間や環境や性格や人間や、様々なもの、あるいは何かひとつのものに追い詰められて、もう死んでしまうしかないのだろうかと、死んでしまおうと思っているということを言葉少なにでも告白して来たのならば、私の身勝手な願いではあるが、どうか話を聞き、この世界に繋ぎ留めてほしいと思う。
私の友人が言った、本当に死にたいならば黙って死ねばいいという言葉は乱暴に思える反面、本当に死にたい人間は本当に黙って死んでしまうのだろうということを私に気付かせてくれた。確かに、私が心底から死にたいのならば人の迷惑顧みず快速電車に飛び込むだろうし、包丁で手首を切るだろうし、高層ビルの屋上から飛び下りるだろう。それをしていないということは、本当には私は生きていたいのだ。生きて、作家になりたいのだ。それがせめて通過点として叶うまで、私は何が何でも生きていたい。だからこそ、こうして悩み、放射能の件でも必要以上に気に掛けてしまうのだろうと思う。一秒でも多く生きていたいから、死とはなるべく離れていたいからだ。
しかしながら追い詰められた時の、死を想う感情が偽者だとか、程度が浅いだとかは私は思わないし、そのように友人などから思われてしまうことは悲しい。どうせ死なないだろう、死にたいと言っているだけだろう、本当に死にたい人間は黙って死ぬのだからこうやって告白して来ている以上、死ぬことはしないだろう、まだ大丈夫だろう。そう捉えられてしまうことが余計に私を追い詰めるような気すらする。
現在の担当医とは別の医者に、大丈夫そうだと告げられたことがある。また、もう二十分以上話しているし次の患者さんも待っているわけだし、もういいかな、とも。確かに初診ではない私が二十分も自分の内情を語ったところで必要のない部分と判断されるのかもしれない。医者は対応する薬を間違いなく処方したいだけであって、私の環境や感情の深いところまでは求めていないのかもしれない。たとえば、毎日がやたらと不安である、原因はおそらくあれである、自覚症状としては眩暈が多い、ふらつく。そういった具体的、かつ、表層的な情報を患者から聞き出したいのかもしれない、処方箋を出す医者としては。だが、良く考えてみてほしい。精神状態が普通ではないと自分で判断、あるいは他者に判断されたから病院にやって来たわけで、その人間がきちんと順序立てて自らの現状や、こうしたい、ああしたい、といった願望や希望を確実に医者に自分の口で伝えることが出来るだろうか?
出来る、と言われてしまえばそれだけの話だが、私はそうとは限らないと考える。平素の状態ならば、明るくはきはきと話せている人間であっても、一日の中で急に死にたくなるような想いに襲われてしまうようになった人間が、病院に行ったところで、自らの症状、また、医者が求めている情報を体系立てて伝えることが出来るとは限らないだろう。私自身はそうであったのだが、私だけが特殊であって、その他の人間はきちんと話すことが出来るのだろうか。なかなかそうは思い難いものだが。
また、たとえ待合室が混み合っていて、多くの患者が診察を待っているとして、それを思い遣る心が医者にあったとしても、現在診察中の患者に伝えるべき事柄であろうか? そうすると患者はますます焦り、本当に話したいことや話さなければならないことの整頓が成り行かなくなるのではないだろうか。少なくとも私はそうなってしまい、話すべきことが結果として良く分からなくなったまま診察を終えられ、その帰途の駅でホームの端から端までをとぼとぼと歩き、いつ飛び込んでやろうかと、電光掲示板を見ながら快速電車の通過を待っていたことは記憶に新しい。
人間に様々いるということは、当たり前に職業によっても様々な人間がいるということだ。現在の担当医は初診の時にも診てくれた方で、話を焦らせるようなことはしないし、だんだん自分でも何を伝えたいのか分からなくなって来た折でも、質問をして一度、頭の中をクリアにさせてくれるので、私には合っている医者のようだ。その質問の仕方でも、問い詰めるようなところはなく、あくまでも、心情を整頓させる為という意図が大きいのではないかと私は考える。得てして質問とはそういうものかもしれないが、別の医者のように、早く症状をはっきりと話してくれというような焦燥を募らせる如くの聞き方ではないところが私にとって救いとなっている。
私の症状は軽いものなのかもしれない。軽い薬で、ある程度は抑制出来るのだから。小説や随筆の執筆、友人との外出や電話、読書、映画鑑賞など、したいことが思い浮かび、実行出来るのだから。その点では私は恵まれたと言えるだろう、自らの性質にも、友人の存在にも。だが、不定期的に繰り返しては治まりを続けている、この五年間という時間に私は疲弊してしまっている。たとえ落ち着いても、どうせまたいつしか死にたいと思うほどに落ち込み、泣き、訳が分からなくなる瞬間や時期が来るのだろうと思うと憂鬱極まりない。それでも今は、作家になりたい自分を捨て切ることが出来ないので、こうして何とか生きている。
4
相変わらず騒音はなくならない。思うに、私がこんなにも疲弊しやすくなっているのはひとえに現在置かれている環境に起因すると言って、まず間違いがないとは思う。賃貸物件の一階に住む私の上階に住む住人は生活音を超える音を多く出す女性で、普段の足音からして踵から落とすようにしてのものである為、相当な精神的負荷が階下の私には掛かる。早朝三時半頃に起床し五時に洗濯機を回し七時頃に家を出て行く。朝五時に掃除機を掛けることもある。その場合は大体において男性が夜に訪問をする日だ。そして情事に及ぶ。そのような他人の生活サイクルなど知りたくもなく興味もないのだが繰り返されれば認識してしまうことは致し方ないと言える。
ここ半年程前から騒音はひどくなり、情事の際にはアダルトビデオ鑑賞でもしているのかと思った程の声が階下の私に聞こえていた。現在もそれはあるが、管理会社に洗濯機などの使用時間帯や足音などの件で苦情を二回入れた結果、割合には改善されたようにも思う。朝五時の洗濯が朝七時になったり、情事の回数は減った。だが足音は依然として変化はないし、情事の音が控え目になったとは言え聞こえることは変わらない。おそらくスプリングベッドなのだろう、それの軋む音と女性の気持ちの悪い喘ぎ声が聞こえる。ひどい時には上階の隣の部屋からも、そういったものが聞こえて来る。また、最近、隣に入った女性の住人は声が大きく、夜の二時頃に男性と話していたり、同時刻くらいにテレビを観ていたり、朝の九時くらいから三時間程、電話をしていたりする。
基本的に、この建物自体の構造が良くないのだろうとは私もさすがに分かって来た。建造物に詳しくはないのだが、軽量鉄骨という類いに分類されるようだ。木造建てよりは防音性は高いと聞いたが、本当だろうか。私の部屋の照明は天井から吊り下げる式のものだが、それが、ぎしりと言うくらいに上階からの衝撃を受けることがある。三月の震災からしばらくの折には地震かと思い、上を何度も見上げてしまっていたが、やがてそれは上階に住人の情事によるものだと理解した。理解したことが幸か不幸かは分からない。
半年程前、情事による騒音に三十分程耐えた後、急激な眩暈に襲われて私は立ち上がることも困難な事態になり、救急車を呼んだ。あとになって分かったが、回転性眩暈というものらしい。メニエール病に多く見られる症状らしいが、あれから半年程経過した現在でも、私がメニエール病なのか否かは判然とはしていない。幾度か通院し、そのたびごとに聴力検査もおこなっているが、分かったことは、常人の範囲内ではあるが聴力の低下が見られ、特に低音が聞き取りづらくなっているということだけだった。
通常、メニエール病と判断するには、半年から、それ以上の時間が掛かると医師から聞いた。特に私の場合は約半年の間で回転性眩暈は二度程しか起きておらず、毎日のように起こる症状は耳鳴りと耳の痛みが主な為、医師も特に判断しづらいのかもしれない。また、家の環境と、それによる私の心情を告げたところ、精神的なところから生じているものでありメニエール病ではないかもしれないという言葉を受けた。だが、今現在も、メニエール病ではないという判断はされていない。それがまた私の不安に拍車を掛けるものでもある。
しかしながら、毎日は絶え間なく廻る。私がメニエール病であろうとなかろうと、たとえ神経過敏や聴覚過敏になっていようとなかろうと、学校に行こうと休もうとも関係なく、日々は確実に緩やかに廻り続ける。時間の早さというものは誰にも平等だ。だからこそ、本当に生きて行きたいのならば、負けてはならない。環境にも事情にも、自分自身にも。
勝つとか負けるとか、プラス思考とかマイナス思考とか、ポジティブとかネガティブといったような表現が私は好きではない。おそらく、高校生の頃に担任教師が幾度も幾度も繰り返したせいのような気が漠然とするが、それ以上に多分、私は思考や感情に符号を付けることが好きではないのだと思う。どんな思考であれ、どんな感情であれ、それはただ、それだけのものとしてそこに存在するのみであり、形容の必要などないと考えているように思う。私自身にも理由はあまり良く分からないが、とにかく、思考や感情にプラスもマイナスもないと思うのだ。
一見すれば、暗いことばかり書かれているようなこの文章でさえ、私はマイナスやネガティブとは呼べないように思うし、その逆もまた然りだ。私は私として、こういった考えを持っている。こういった日常に生きている。また、そこから脱却する為の一環として、これを書き綴っている。ただ、それだけのことなのだ。
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私が生まれるよりも以前に誕生している映画のひとつに、「Kramer vs. Kramer」という洋画がある。その役者インタヴューの中に、「病人に選択肢はない」という言葉があるのだが、まさにその通りだと、先日、久しぶりにこの映画を鑑賞して思った。これを観るのは二回目になるのだが、最初の鑑賞時に役者インタヴューまで観た記憶がない。だが、当時の私が同じ言葉を耳にしたとて、今と同様の心情になったかどうかと聞かれると、イエスとは言えない。それは単純に時間の経過による私自身の成長や価値観の変化などが要因になる可能性だけによる回答ではなく、メンタル面での「病んだ」という状態をおそらくは経験していないからだ、当時の私が。
「Kramer vs. Kramer」という映画に出て来る登場人物のひとりは、自殺寸前まで精神を病んだ状態になる。その描写は少ないが、それを演じた役者の言葉だ。「病人に選択肢はない」という言葉は。
私が精神を病んでいるのかは分からない。知らない。だが、メンタル面を安定させる為、不安を取り除く薬を服用しているという事実はある。医者から病名を告げられたわけではないし、カウンセリングに掛かっているわけでもない。だが、そういう薬が私の日常を日常たらしめる為に必要になっている現実は事実として今、ここにある。明日も明後日もあるだろう。私は、一体いつまで、この現実を受け止めて生きて行けばいいのだろうか。寿命を全うするまでだろうか。
最初にそのような薬を飲んだことは約四年程前だろうか。その医者とは相性が合わず、薬による改善も全く私としては自覚されず、病院が移転することをきっかけに通院を止めた。そして約一年前、別の病院に行った。そこには今も通院しているが、一年前に初診で掛かってから一年間、一度も通院をしなかった。それは、行かなくても済んだからだ。少なくとも私個人の判断では。だが、思い返してみるに、精神的不安を強く覚えることは幾度もあったし、また、それゆえに「病院に行く」という判断が自分では出来なくなっていた時期もあったように思う。そもそも病院自体が好きではないということも関係しているに違いない。しかし正直なところを言うと良く覚えていない。それは、覚えている必要がないくらい正常だったのか、過剰なるフラストレーションによって異常な状態になったがゆえに覚えていないのか、はっきり言って定かではない。だが、何を以って正常とし、何を以って異常とするのか、私には分からない。何が普通で何が常識で何が正しいか、毅然と言い切れる人間はいるのだろうか。
一体、いつ頃からこのように不安を感じやすい性質になってしまったのだろう。人の顔色をどことなく窺っているようにも思う。混雑していなくても電車は苦手だ。瓶詰めにされた蟻のような気がして来る。混雑した駅や混雑した駅前は苦手だ。人間が私も含めて生ごみのように思えて来る。電車や教室のように、一定の空間に一定の時間、同じ人間達がいて、そこに私もいるという状況が苦手だ。喘息以上に息が苦しくなるような気がして来る。それはきっと錯覚なのだが、何故、私はそのような気分になるのだろう。街中で、人とすれ違う瞬間が苦手だ。行列に並ぶことが苦手だ。混雑した階段を上ることも下りることも苦手だ。人にまみれることが苦痛だ。だが、人にまみれることが得意だという人間はあまりいないだろう。程度の違いなのだ。分かっているつもりだ。
しかしながら何故、私はこのようにストレスを受けやすいのか。そういう性質だ、そういう性格だ、そういう人間だと言われてしまえばそれまでだが、私は生きている限り一生涯、これと付き合って行かなくてはならないのかと思うと、眩暈を覚えそうになるくらいには気が滅入るのだ。
病人に選択肢はない。まさしく、その通りだ。私が病人かどうかは先に述べたように分からないし、知らない。だが、どこまでもどこまでも私という人間は私という人間ごと、私に付いて来る。選択肢はない。付き合うしかないのだ。この世界で、現実で、日常で、私が私として生きて行きたいのならば。
現代人など、多かれ少なかれ、皆、病気だと思う。病名が付かなくとも、きっとそうなのではないだろうか。そして私の状態など軽いもので、もっと苦しい思いをしながらも生きている人間、生きて行こうとしている人間は、大勢いる。そのように思う。けれども、この私の現実の中で、私は一体どうしたらいいのだろう。不安だ、ストレスだ、悲しい、泣きたい、どこかに行きたいのにどこにも行けない、自らの性質と向き合うことに疲れた。そんな思いを抱えて死ぬまで過ごして行かなくてはならないのか。
不定期的とは言え、もう約四年以上にはなるのだ。私が私を少しおかしいのではと初めて思ってから。風邪ならば、大体いつ頃には治ると分かるだろう。症状の緩和も早いだろう。だが、精神的なことに関しては、いつ頃に完治するとは誰も、医者も、言えないのではないだろうか。症状の緩和についても、緩和に留まってしまうことが多いのではないだろうか。今の私は緩和に留まっているようだが、いつまで薬の服用を、通院を、続ければいいのか分からないし、もう病院に行かなくても大丈夫だとは決して思えない。
先日、自宅の上階にて騒音があった際には十日分の薬を一度に飲んでしまった。翌日、何とか電車に乗って駅に降り立ちはしたのだが、立っていることすら苦痛で倒れ込んでしまった。あの夜は、もう駄目だと思ったのだ。耐え切れないと。上階の住人がいなくなればいいと、もう幾度、思ったことだろう。あの日、私は自分が消えてなくなるしかないと思った。十日分の薬で死ぬことが出来るとは思わなかったが、何も考えたくなかったし、考えてはならないと思った。気が付くと手首に包丁を何度も何度も強く当てていた。だが、引く勇気はなく、規定の服用量を超えてのコントミンの服用に私の行動は留まった。本当に死にたいのならば包丁を胸に突き立てればいいと思った。だが、出来なかった。痛みや死そのものに対する恐怖もあっただろうが、おそらく、私は本当には死にたくないのだ。
引っ越したい。書きたい小説がある。書きたい台本がある。行きたい水族館や動物園がある。観たい映画がある。学びたいことがある。読みたい本がある。飲みたい紅茶がある。全てを知りたいと思う程の知識欲がある。友人が、いる。願望や希望や喜びがあることの、何と素晴らしく尊いことか。ここに逆接の接続詞を持って来ることは本意ではないのだが、敢えて、それでも言おう。しかしながら、私はいつまで私の薄暗い性質と付き合って行けばいいのだろうか。死ぬまでだろうか。これは治らないのだろうか。そもそも病気なのだろうか、性格なのだろうか。正常なのだろうか、異常なのだろうか。こういう人間だからこそ、このような随筆めいたものを書いているわけで、こういう人間だからこそ書ける話があるはずだが、そのようにして自分で自分を幾度救済すれば私は本当に救われるのだろう。
震災以降に覚えてしまった、自分はひとりきりで何をしてもひとりごとのようであるという感覚は未だ拭えない。一度覚えてしまった心情は、何かしらのきっかけがない限り変化することはないのだろうか。だが、二十四時間、全ての時間、友人に共にいてくれなどと言えないし、仮に少なくとも今の私に友人が同じことを言ったとして、それは無理なことだ。だから分かっている。無理な願いを私がいつの間にか抱えてしまったということに。
明日も私は電車に乗って、慣れた駅に降り立つだろう。瓶詰めにされた蟻のような心持ちで。それでも全ての事柄は等しい時間の下に廻るのだ。私も、誰も、皆。
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正式にどう呼ぶのかは分からないが、私は良く「揺り戻し」と呼んでいることがある。何かしらのきっかけで、以前と似たような精神状態になることだ。
先日、それが起こった。とは言え、まだ安定もしていない状態の上でのことだったので正確にはこれに該当しないのかもしれないが、ともかく約三日程前、深夜二時頃、おそらくはスプリングベッドであろうものの軋む音が聞こえて来たのだ。吐きそうになった上、正直、ここに書いてはならないと思われる他者へと向ける感情を自覚した。癇癪持ちではなく、自他共に認める程、おっとりとした性格のようだが、あの時、私は扇風機を壁に向かって投げ付けてしまった。愚かなことだ。扇風機と壁が傷むし、騒音の元となっている上階の住人だって人間なのだ、そのような対応を私は人間に対して本当はしたくない。
だが、最早、半年間以上に渡って耐え、聴覚過敏や神経過敏におそらくなり、メニエール病の疑いすら引き出された私は、咄嗟に立ち昇った感情を抑制することが出来なかった。泣きそうになりながら耳栓をして、その日は眠った。耳栓はこの日だけではなく、もう毎日、眠る時には習慣となってしまった。安心出来ないのだ。しかしながら耳栓をしていても聞こえることもある。イヤホンを使用して音楽を聴いている時にも分かることがある。
建物自体の問題もあるのだろうと私もやっと分かって来た。と言うのも、隣に入った住人の電話の声やテレビの音、その他、物音が良く聞こえるし、また、上階の騒音以外の生活音、つまり台所の水道を使う音や、お風呂を使用していると分かる排水溝の音などが聞こえるのである。そのような話を幾人かの友人にしてみたところ、建物の構造がおかしいという結論に至った。
勿論、上階に関しては住人の問題もある。また、元を正せば上階の住人が原因とは言え、現在の私はおそらく過敏になっているのだ。拾わなくていい音を拾い、気にしなくていい音を気にしている可能性は非常に高い。だが、音の大きさはさほどでもなくなり、頻度が低くなったとは言っても、行為をしていると分かる音が伝わって来るだけで私は泣きそうになるし、実際に泣きながら帰った日も何度もある。
聞こえた日の翌日、擦り切れた神経で資格取得の為の学校に行き、泣きそうになりながら授業を受け、泣きながら友人と電話をしたりメールをしたりしている。これは、管理会社に伝えていいのだろうか。友人の一人は、伝えるべきだと言った。だが、別件の騒音で以前に三度程、管理会社に話をしている身であり、それによって上階の騒音は多少改善され、現在の騒音と言えば行為の音である。それも音の大きさ自体は、さほどでもないのだ。頻度も低い。だが、それによって泣いてしまう私や薬を発作的に多く飲んでしまう私や泣きそうになりながら身支度をして学校へ行く私がいることもまた事実だ。
最前の策としては最早、引っ越すしかないことは良く分かっている。重々、承知だ。だが、今すぐにはそれが叶わないので資格取得も含めて努力中であるのだが、その努力、もっと言ってしまえば私の日常がばらばらと降り注ぐ硝子のようになってしまっていることが、とてつもなく痛く、息苦しい。
基本的に私は自宅へ帰る。だが、基本的に私は帰りたくなくなってしまっている。帰ったところで、イヤホンによる音楽は決して手放せない。聴いていない時は、入浴中と化粧水などを付けている時くらいだろう。就寝時は耳栓をしている。メンタルクリニックに通い、服薬している。耳鼻科にも時々、行っている。
ここまでして私は生きていた方がいいのか、心底から悩む毎日が、もうここのところずっと続いている。騒音が悪化したことが半年前、回転性眩暈で倒れて救急車を呼んだことが半年前。最近になって騒音は収まりつつあるとは言え、行為の音は残っている。私は身を以て知った。擦り切れた神経は、コップに水を注ぐようには元に戻らないことを。また、要因が改善、緩和されたところで、それでは元通りにこちらも回復しました、とはならないことを。
何故、私がこのような思いをしなければならないのだろうという心情が近頃は非常に強く、だが、管理会社にこれ以上伝えていいか分からないということ、市役所の市民相談課に相談をするにしても時間が掛かりそうだということ、引っ越しはもっと時間が掛かりそうだということ。これらが私を締め付けている。
時間の経過と共に改善して行く問題もあるだろう。最終的には引っ越せるようになるかもしれない。だが、それは数ヵ月、あるいは半年くらい掛かるのではないかという、嫌な見通しが付いてしまっている。その間、私の神経はもつのだろうか。
人間が簡単には狂わないであろうことは自らの過去の経験なども踏まえて分かっているつもりだ。だが、神経というものは日々、フラストレーション下に置かれ続ければ摩耗されて行く。そして簡単には元に戻らない。私は一体、どうしたらいいのだろう。だんだんと行動や判断に伴う精神力が低下して来ているように思う。もう何もしたくないとなる前に、行動を起こさねばならないことは分かっているのだが。低下に加え、私は勇気がないのかもしれない。
このような弱々しい私という人間は幾人かの友人に支えられて生きているわけだが、その友人を振り回すことにも、もう本当に申し訳なさと罪悪感が強く募っている。かと言って、ひとりで考え抱えて行けるのかと尋ねられると、その点は遥か以前に通過してしまっている。
人間は個別の生き物だ。私一人を二十四時間見続けているわけには行かないし、それぞれに生活があることも良く分かっている。良く、分かっているはずだ。だが、私は、どうしたらいいのか分からなくなってしまい、甘えと言われようと疲れてしまい、擦り減って行く神経の戻し方も保ち方も分からないまま、一日、一日が過ぎて行くことに悲嘆と焦燥を覚え続けている。このまま、この家に住む私のまま、私は引っ越しに向けて努力して行くことが出来るだろうか。友人を失わずに済むのだろうか。私は一人なのだろうか、それとも否か。答えの出ないことが、こんなにも恐ろしいものだと、私は本当には知らなかったように思う。私の、この薄暗い性質や、今のような環境がなかったならば、友人に迷惑を掛けることは、少なくともこの点においてはなかっただろうか。友人に、呆れられることが怖い。迷惑を掛けることが申し訳ない。負担になることが悲しい。謝っても謝り切れない。私は生きて行くことに不向きなのだろうか。
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やはりと言うべきか、どれ程に生きて行くことを決意したとて、このように死にたくなることがどうしても避けられない。それは、明確な理由やきっかけなどなく自分の内側からひっそりと立ち昇る黒く淀んだ泡のように生じることもあるし、今回のように外部的要因によって引き起こされる場合もある。そもそも、現在の私は本当に疲れている。疲弊している。私などよりも、もっともっと息苦しい人はきっと多くいるのだろうが、そこを考え比較し自らに鞭を打つことに一体何の意味があるのだろうと最近の私は少し思っている。
性格上なのか、良く分からないが、私は私の息苦しさや大変さなど、他の人に比べるべくもない程、軽いものなのではないかという思いが非常に強い。例えば、現在の住居の騒音問題を相談する為、市役所内にある市民相談室を利用した際、様々な経緯を経てだが「知ったこっちゃねーよ」と幾度も相談員に連呼されたがゆえに、帰り道、泣きそうになっている私がいたとて、そのようなことでそこまでの疲弊を覚えるのはおかしいのではないか、自分に甘いのではないか、弱いのではないか、という自責の念を強く覚えるし、私以上に強い悲しみや苦しみを抱えている人はきっと多くいるのに、この程度のことで泣きそうになるなど、とにかく「駄目」なのではないかと思ってしまう。
余談だが、市役所に行って落ち込まなかった時はない。あの、人を小馬鹿にしたような態度、横柄な対応、ぞんざいな扱いは何とかならないのか。上記した日には耐え切れず、受付の方に、市役所の対応に意見するにはどうしたらいいのか尋ねてみた結果、人事部の方が一人と市民相談室の方が一人(私の対応をした人とは異なる)が、話を聞いてくれ、謝罪をしてくれた。注意をしておくと告げてくれた。しかしながら、そのことにも私はどうしてか罪悪を覚えてしまう。注意をされる人間のことを少なからず思い、申し訳ないことをしたのだろうかと考えてしまう。この辺りが、たびたび友人に指摘される、人に気を遣い過ぎという部分なのだろうか。耐えても辛い。耐え切れずに告げても辛い。私は一体、どうしたいのだろうか。また、報復と言うには大袈裟かも知れないが、私が名指しで相談員の方の対応を人事部などの方に伝えたせいで、次回に市民相談室を利用した際、加えて指摘をした相談員に当たった場合、憎々しげに対応をされたら怖いという思いがある。
私は誰とも争いたくない。牡牛座はその傾向が強いようだが一概に星座占いで性格を判断することは出来ないだろう。だが、気になることは確かだ。争うということではなく、単に自分が思ったこと、考えたこと、不快だと思ったこと、意見を言うことなどの全般に少しながら恐怖を覚えているような気がする。私は人とぶつかり合うことが怖いのだ。たとえ相手が、私が考えている程の不快感や苛立ちを覚えないにしても、そんなことは目に見えるものではない。証明もない。しかし態度に出される可能性はあるだろう。それも含め、私は人に意見を言うことが少なからず怖いのだ。市役所に関しては、横柄な態度を取られたことが多いがゆえに余計にそうなってしまったのかもしれないが。
ここで騒音問題等に関して私が諦め、この件については市役所にはもう行かないという選択肢もあるが、それはそれで苦痛である。幾らか改善されたとは言え、最早、脳味噌に刻み込まれた騒音への恐怖と警戒心と嫌悪感は簡単に拭えるものではなく、帰りたくないあまりに泣きながら帰っていたり、家に帰り玄関扉を閉めた途端に、こんなところにはいられないと飛び出し、下を電車が走る橋の上に立って死にたいと考え続けるくらいに、もう、あの家に住むことには限界が来ている。私の苦しみは家にある。そして、それがその他の不安や悲嘆を何倍にもして私から不要に引き出し、必要以上に私を責める。そんな気がしている。
この騒音と言うのは早朝五時の洗濯機や踵から落とすような足音等、様々あり、それらは管理会社に三度、苦情を入れたことでかなり改善はされた。だが、未だ性行為の音が残っている。建物の構造自体にも問題があると分かり始めてはいる。だが、聞こえた時に扇風機を投げ付けてしまう程の心情、その神経で翌日に学校に行く心情と状況、日々の恐怖と警戒心にどのように対処すればいいのか、もう私には分からない。メニエール病なのかどうかも、回転性眩暈で倒れてから半年程経過したが、まだ判然としない。ただ、聴力は低下した。音楽の途切れる瞬間が怖く、帰宅してからは入浴時以外のほとんどを、カナル型イヤホンをして音楽を聴いて過ごしている。聴きたくもないのに聴いている時もある。就寝時は耳栓をしている。
昼間は自宅の目の前に十二階建てのマンションの建設が始まったようで、それは来年の末まで続くと言われている。毎日、昼間に家にいるわけではないが、起きなくてもいい時間に工事の音で起こされる。学校は今月末で終わるので来月は自宅で勉強をしようと思っていたのだが、この分では自宅での勉強は困難なような気がする。ただの我儘なのだろうか。だが、昼間は工事、夜は上階を警戒し、隣室からの深夜二時のテレビの音を気にする生活というものは長期に渡って繰り返されると本当に神経を病むということが良く分かった。特に半年以上を耐えた上階に関しては。
だからと言って死ぬという選択は、些か短絡的に過ぎるだろうか。死ぬという言葉を安易に用いることは決していいことではないと分かっているつもりだが、それ以外に、あの時の心情を言い表すに相応しい言葉が見付からない。
先日の雨の日に橋に立っていた時は、あと一歩のところだったのだ。誰かが心情的に背中を押してくれたなら、そのまま舞い散っていただろう。人身事故が如何に他人に迷惑を掛けるか分かっているし、私自身、そのせいで遅刻したことなどは幾度もあるのだが、あのような時はもうそのようなことを考えるキャパシティはどこにも残されてはいないのだ。
私は、あの衝動性が怖い。怖いということは、死にたくないということだろうか。私自身のことなのに良く分からないのだ。だが、上階の見知らぬ人間を要因として私という良く知る人間を見捨てることは、ひどく悲しく、腹立たしいことのようにも思える。上階の件だけに限らず、医者に指摘された通り、私は人より少しストレスを感じやすいのだろうと思う。また、良くも悪くも繊細なのだと。そんな私だからこそ書ける物語があり、私は心底から作家になりたいのだと思ってはいるのだが、近頃は本当に疲弊が強くなり、毎日毎日、死を思っている。
自分を助けられるのは最終的には自分だけだろう。だからこそ、このような私だから書ける物語があると、私は私を救済し続けている。相談は、解決の見えない事柄になってしまうとほとんど無意味なのではないだろうか。つまり、精神的なことになってしまうと、無為に相手を疲れさせるだけなのではないだろうか。
私の現状では、もう引っ越すしかないだろう。引っ越した先で安寧が約束されるわけではないが、ここにいる限り、それは決してないだろう。ならば、可能性に賭けるしかないのだ。
本音を言えば、何の物音もしない静かな地で静かに暮らしたい、静かに勉強をしたい、静かに小説を書きたい。だが、おそらくそれは不可能だろう。また、何も私は生活音の範疇のもの全てが我慢出来ないというわけではない。多少は仕方のないことなのだ、人間がそこに住む限り。現に私は、以前、ここまで過敏になってはいなかった。こんなにも静寂を求めてはいなかった。無意識下で理解し受け入れていたのだ、人が住む以上、音は生じるものだと。
だが、聴覚も神経も過敏になってしまった今、私は必要以上の、出来得るなら最大限の静けさを求めてしまっている。街行く人々の話し声、駅前の喧騒、エンター・キーを強く叩く音、癇(かん)に障るような高くうるさい講師の声、音という音のほとんどに私はどこかで引っ掛かりを覚えている心になってしまっている。この家にいる限り、その要因を引き出した上階の人間のことを忘れることは出来ないだろう。希釈しても、一回の性行為の音で全ては無駄になる。少し希釈し、少し回復し、生きて行こうとする、作家になろうとする私の人生の全部と言っても過言ではない程のものが無に還される。それどころか神経が悪化してしまう。コップに水を注ぐように、神経は元には戻らない。
私が死にたくなる気持ちは嘘ではないだろう。日々の疲弊も同様だ。だが、本当に私は死にたいのか? 作家になるという、夢などという言葉では言い尽くせない熱情を放棄してまで誰もいない静寂を求めたいのか。仮に、環境がとても静かだったとして、それでも私は同じことを望むだろうか。確かにストレスを覚えやすい性格ではあるようだから、きっと今後も辛いことがあれば何十倍にもしてそれを受け止め、泣くかもしれない。そして死んでしまいたいと思うかもしれないし、実際に死のうとすることもあるかもしれない。だが、私が今、見据えるべきなのは現状の環境という一点ではないだろうか。先のことなど分からない。死にたいと思わなくなるとは言えない。頭がおかしいのかどうかも分からない。しかし、上階の人間からフラストレーションを与え続けられて神経が疲弊して擦り切れそうになったから、私は死ぬのか? それはどこか違うのではないだろうか。たとえ今すぐには引っ越せなくとも、自宅の目の前で工事が始まろうとも、新しく隣に入った人間が深夜にテレビを観ていようとも、泣きながら帰宅する程に家に嫌悪を覚えていようとも。それでも私はまだ、もう少しでも、生きて行きたいのではないだろうか。
何の為に勉強をするのだ。資格を取って、就職に繋げ、引っ越す為だ。何故、生きているのだ。作家になる為だ。分かり切っている。ただ――あの、どうしようもない程の衝動と絶望と悲嘆は筆舌に尽くし難い。メーターの針が振り切れるようになってしまう私の頭の中。これを抱えて今後も私は生きて行くのだろうか。
友人はいても、相談がほとんど無意味ではないかと分かり始めてしまった私は、誰に何を話して生きて行けばいいのだろう。薬を飲んでも落ち込み続ける神経は、一体どこに向かおうとしているのだろう。そして、震災以降に強く覚えるようになってしまった孤独感と、どうやって向き合えばいいのだろう。何をしても考えても喜んでも悲しんでも、まるでひとりごとのようで。作家になるという熱にすら、私はそれの侵蝕を少しずつ感じて始めている。それだけは止めなければならない。だが、そう思うことすら、ひとりごとのようで虚しい。ありふれた表現だが、私がいてもいなくても世界は廻るのだ。それこそ、私が作家になろうとならなかろうと。必ず、世界は廻る。それでも私は、こんなにも擦り切れた神経を抱えて孤独と向き合い、影のように死を連れて生きて行くべきなのだろうか。生きて行きたいのだろうか。
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随分と間が空いてしまったようだ。実に約十ヶ月ぶりの執筆となる。この間(かん)、本当に様々なことがあった。騒音のひどいアパートには別れを告げ、今は静かなマンションの最上階、角部屋に住んでいる。そして、もう恋愛は私には無理だろうと思っていたのだが、今年の二月から恋人に出会うことが出来た。未だに少し、信じ難い。
前話で、生きて行くべきなのか、生きて行きたいのだろうかと綴ったが、今でも私にはその答えは分からない。ただ、私が死んだらきっと悲しんでくれるであろう人がいる。この事実は、確かに私の胸に灯を灯した。陳腐な言い回しなのかもしれないが、自分が死んだ時に悲しんでくれるであろう人が存在するという、ただ一点の事実であり現実は、確実に私を深淵から救った。
大袈裟と笑う人もあろう。だが、家族というものがいないに等しい私にとって、私の気持ちを汲んでくれ、私の喜びを自らの喜びのように感じてくれ、出来る限り私を優先し、愛してくれる人間に出会えたことは、私にとって至上の喜びと言うに等しい事柄なのだ。
実を言うと、愛しているという言葉の意味は、私には判然としていない。喩えば、「食べる」という動詞は、「物を食べる」という意味だ。良く分かる。だが、「愛している」や「愛する」という動詞は、具体的にどのような行為を指すのだろう。世の中の「愛している」という言葉を用いている人々は、本当の意味で、その音の指し示す意味を充分に理解した上で唇から発しているのだろうか。
しかしながら、意味を良く把握していない私ですら、愛していると言われると素直に嬉しいものだ。また、私自身、愛しているという言葉を恋人に告げている。意味を分かっていない言葉を口にするなんて愚かな行為と笑うだろうか。だが、私はそれでも構わないと、最近になって思うようになった。愛しているという言葉の定義を明確にすることは、少なくとも私にとっては難しい。だが、恋人と共に在り、心の奥底から込み上げた想いこそが愛情であり、その人を愛しているということに繋がるのではないかと考えている。
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愛情こそが私に必要なものであったと――今、ようやく理解し始めている気がする。本当の意味では、まだ分からないのだ。何故なら私は、恋人にですら、全幅の信頼を寄せることが出来ていない――出来ないのだから。これは時間が解決する事柄なのかもしれないし、もしかしたら燻り続ける火のように私の中に残ることなのかもしれない。答えは、いつか分かるかもしれないし、分からないまま死ぬのかもしれない。
だが、今、私は愛されて幸せだ。ようやく、幸せというものを知った気がする。幸せと言うよりも、愛情と言うべきか。
私が今までに一度も、決して誰にも愛されなかった子供であるとは思わない。幼い私の心には、楽しかった思い出が幾つも星のように存在している。それは本当にささやかなことでも構わない。夏祭りの日に近所の子供達と一緒に貰った氷菓子とか、ジャングルジムで遊んだこととか、持久走大会に両親が応援に来てくれたこととか、「中学校卒業おめでとう、高校でもがんばってね」という手作りのメッセージカードを弟が贈ってくれたこととか。それこそ、思い返せば星の数ほどに思い出はきらきらと存在を示してくれる。私は、それらをとても大切に思っている。
だからこそ、いつからかずれ始めた、歯車とでも言うべき家族関係に深く悲しんだのだろう。そして、両者の両極端さに脳も心も体も付いて行けず、困惑し、混乱し、泣き、怒り、何とかして元に戻そうと苦心したのだ。
だが、結論から言えば、それは徒労に終わった。最終的に、母は母ではなかったし、弟は弟ではなかった。父は栃木県にあるらしい、癌治療専門の病院に転院して、ほどなく他界した。
私は、父と暮らす約束をしていた。母と離婚した父と、私はこっそりと連絡を取り、会い、会話をした。思えば、あの時、私は幸せの一歩手前くらいに立っていたのかもしれない。父と一緒の家で暮らせれば、私はやっと幸福になれると信じていただろう。これも、当時を思い返せば、きっとあの頃の私はこう思っていたであろうという推測に他ならないが。
私は両親に愛され、弟にも愛されたはずだ。たとえそれが、期限付きのものであったとしても。父だけは、最初から最期まで私を好きでいてくれたと信じているが、他に関しては決してそうは思えない。そうは思えないと思わなければ、説明の付かないことだらけだ。何故、私は、あのような時間を過ごしてしまったのだろう。過ごさざるを得なかったのだろう。他者と比較してもほとんど意味など持たないのかもしれないが、私は、おそらく私の知る友人の家庭環境とは掛け離れたところで育ってしまった。正直、違う母親の元で育っていたら、私はどんな人間になっていただろうという疑問が尽きない。
愛されたが、最終的には愛されなかった。家族と呼べるはずの人間達と、疎遠というよりも、絶縁に近い形になっている現状、私は今日まで生きて来て、ようやく恋人によって救われたのだ。
私より六つも年が下の恋人は、精一杯、私を愛してくれる。嬉しい。それなのに私は、拭い去れないのだ。また、いつかのように、誰かのように、期限付きの愛情で以って私を置き去りにして行くのではないかと。
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疑ってばかりいたら何も得られない。相手にも失礼なことだ。分かっている。だが、私はもう二度と、置いて行かれること、いらないと捨てられること、飽きられることがいやなのだ。ずっと、好かれていたい。ずっと、好きになっていてほしい。ずっと、好きでいたい。出来るだけ多くの同じ時間を過ごして行きたいのだ。
池袋の水族館に行った。池袋の猫カフェに行った。池袋のダーツバーに行った。大宮のパン屋に行った。大宮のケーキ屋に行った。杉戸高野台の食べ放題に行った。新越谷のパン屋に行った。カラオケ、公園、散歩。沢山の場所に行った。どれも楽しく、小さな出来事も全て宝石のように綺麗だった。一緒に見た花のことや、一緒に食べたパンの味、繋いだ手のあたたかさ、見上げた夏の青空と白い雲、どれも私は忘れないと思う。
そう、忘れないと思う。こんなに幸せで、やっと、生きて来て良かったと思えたのだ。何度も死を考え、友人には恵まれたが家族には最終的には愛されなかったこと、父と暮らす約束をしていたのに他界してしまったこと、落ち込みやすい、精神的に脆い自分自身の性質のこと。様々なことを過去も現在も抱えているが、私はようやく、恋人と生きて行きたいと思えたのだ。小説家になる夢も頑張って叶えようと。そういったことも、もう一人で考えなくていいのだと。
厳密に言えば、私は一人きりではなかった。前記したように友人に恵まれ、死を思うたびに友人に救われ、道は一つきりではないことを示して貰ったのだ。それはカンテラの灯のようにとてもあたたかく、大切で、嬉しいものだった。
友人を軽んじるわけでは決してないが、恋人と友人は違うのだということを、私は今、思い知っている。
現在の恋人の前にも一人、付き合った人はいたが、その時にはこのような気持ちにはならなかった。もう一人ではないのだとは、思わなかった。それは年齢を私が積み重ねるにつれ、数年前の当時よりも寂しさや悲しみが募って行った結果なのかもしれないことを鑑みると、不思議なことではないのかもしれないが、現在の私の恋人は、懸命に私のことを考え、心配し、私と一緒に沢山の楽しい時間を過ごして行こうと考えてくれていることが、数年前と現在とでの違いにおける決定打だろう。
人間を比較することは愚かなことかもしれないが、人が違えば、それはもう全てが違うのだ。考え方も、価値観も、話し方も、雰囲気も、声も。現在の恋人は、私にとってかけがえのない人だ。決して、失いたくない。決して、失うという選択をしてほしくない。良くある話かもしれないが、私は幸福と同時に、非常に強い不安と緊張を覚えているのかもしれない。
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今回の場合、単純に失うという話ではない。喩えば、気が合わなくなり、別れるとか、そういった話ではない。私が恋人のことを忘れてしまう――あるいは、奪われてしまうという話だ。これは恋人に限った話ではないのだが。
元々、私は落ち込みやすく、不安を覚えやすいことを主な理由としてメンタルクリニックに通院をしていた。約一年と半が過ぎた頃、つまり最近になって、ようやく症状が落ち着きつつあった。これで、新たな一歩を踏み出せると思った。騒音に悩まされることのない新しい家に引っ越すことが出来、もう無理なのではないかとすら思っていた恋愛に巡り会い、恋人に出会うことが出来た。そして、症状が落ち着いて来た。奇跡的とすら思った。全てがうまく廻り始めている。ああ、やっと私は安らげる、そう思った。
だが、そうは問屋が卸さなかった。私はここに来て、新たな精神的症状を現出させてしまった。まだ正式な診断は下りていないが、多重人格、解離、過呼吸、パニック障害である。この辺りに関しては、医者から詳しい説明も聞いていないし、友人とインターネットの海から得た知識のみに現在のところはなっているので、医学的見地から見て解釈や認識の違いなどがあった場合、許してほしい。
正直、多重人格などという現象が自分に起きるはずはないと無意識的に私は思っていた。そもそも、失礼な話かもしれないが、私は多重人格というものをあまり信じていない。それは認識の浅さから来るものかもしれないが。あるいは、自分が現在、それと思しき症状に包まれていることで、そのもの自体を拒絶したいのかもしれない。
ロールシャッハ・テストと文章完成法テストというものをおこなったが、結果はまだ出ていない。特に前者は非常に疲れるテストであった。全体で約二時間半も掛かった。それによって一体何が分かるのか甚だ疑問ではあるが、医者が受けろというのだから受けるしかあるまいと思ってそうした次第だ。本当は、あまり気が進まなかった。だが、多重人格でないにしろ、そうであるにしろ、今現在の私に、今までにない症状が起きていることは自他共に明らかだった。そのかけらでも掴めることになるのであれば、受けた方がいいのだろう。そういう心持ちで、私はテストに臨んだ。
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テストの結果が出るまでは何とも言えないだろう。おそらく今月末の土曜日に出るはずだが、私はどんな心持ちでそれを聞けばいいのだろう。多重人格や解離が認められると診断された場合、私はそれをどう受け止めればいいのだろう。
あるいは、何の異常も認められない、あなたのただの思い込みによるものだと言われた場合、私は一体、どうしたらいいのだろう。何故ならば、実際に人格交代と思われる現象を私は体験しているのだから。また、それを恋人や一部の友人が見ているのだから。そして、最近になって起き始めた、私の頭の中での会話については、どう説明を付けるのだろう。
朝になれば、おはようと言われる。夜になれば、おやすみと言われる。当初、攻撃的であった女性の人格は、最近では少し優しくなり、私が寝付けない時には頭を撫でてくれ――勿論、イメージの中での話だが――、昼間には、元気? と、私を気遣ってくれもする。男性の人格はあまり話し掛けて来ないが、女性が私の恋人に少々攻撃的なのに対し、恋人を擁護するような態度を見せる。
人格の誕生の順序としては、女性、子供、男性、の順だ。だが、子供の人格については、誕生の瞬間があまり判然としない。他は、この辺りの日に生まれたということが分かっている。書き留めてはいないので、厳密に何日ということは分からないのだが。こういうことも書き留めておくべきなのかと思い、また、友人に助言されたことも受け、他の人格と私との会話や、それぞれの人格の外見的特徴や性格などもメモしておくようにした。次回、医者に見せてみようと思っている。
全てが気のせいだったらどんなにいいか。最初は、私は強くそう思っていた。だが、最早、気のせいでは済まないレベルにまで来ている。朝、何故、私は頭の中からおはようと言われるのか。それに対し、何故、私は、おはようと返すのか。
思考の文章化とも考えた。喩えば、メロンパンを買おうと思っていたけれどクリームパンにしよう、と考えたとする。それが明確にそのままの文章で頭の中に浮かんだとする。それを、私は、他の誰かが言っているように感じているのかもしれないと。
あるいは、自作自演だと。他の誰かが自分の中にいるように――まるで自分が多重人格者であるかのように――装っているだけだと。だが、そこに一体何のメリットがあるのだろうか。演劇役者を目指してもいない私が、何か面白味でも見出しているとでもいうのだろうか。頭痛や眩暈を伴ってまで、演じたいと思うだろうか。こういう表現は、実際の多重人格の方に失礼に当たるのかもしれない。だが、私はそれを承知で自らの本心を綴っている。
全てが思い込みであったら、まだどんなにいいだろう。いや、それは診断結果を聞くまでは分かりはしないのだ。
現在、処方されている薬も、強いストレスや不安感を取り除く為のものであり、決して多重人格や解離を治療する為のものではない――と、今、こう書いて思ったが、薬の一部に、昔で言うところの分裂症を治療する薬を含んでいると医者から説明があったことを思い出した。メンタルクリニックに通院し始めた当初は、逐一、薬の名前をインターネットで調べていたのだが、そこに書いてある事実を読むたびに、視覚から疲れていったので、最近ではそういうことはしていない。その代わり、医者からの説明を良く聞くようにしている。
とにかく、全てが気のせいであったらいいと私は思っている。ロールシャッハ・テストも文章完成法テストも、素人の私には良く分からなかった。そういえば、「ひぐらしの鳴く頃に」という作品の中で、沙都子という少女がおこなっていたなと、テストを受ける数日前に思い出した。アニメの中でのことであるし、特に私には関係のないことだが、ささやかな現実性とでも呼べるものを私の脳味噌は自らに検索を掛けて見付け出し、少しでも、心安らかになろうと努力したのかもしれない。
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最近では、色々なことが起こり過ぎて、何から綴ればいいのか分からなくなりつつある。だが、こうして私は私の把握をし続けないと、私が私でなくなってしまうのかもしれないという恐れを抱いている。近頃では、薬のおかげか、あるいは人格の柔和化によってか、少々、その恐怖というものは安らいだが。
前記した、恋人を失うかもしれないというのはこのことだ。恋人と付き合っているのは私だ。紛れもなく私だ。私しかいないんだ。私が恋人に告白し、お互いに好きだと認め、水族館に行ったり、私の家に遊びに来て貰ったりしている。
だが、ある日、私は非常に恐ろしくなった。明日は私が私ではないかもしれないという恐怖だ。眠って起きたら、私が私ではなくなっているかもしれないという恐怖。私は眠ることは勿論、普段の日常生活全般にまで恐怖を感じた。
重ねてになるが、その恐怖は現在ではかなり和らいではいる。だが、今も眠ることが怖いのか寝付きが良くないし、自宅であっても廊下や部屋の暗闇は怖いし、いつ入れ代わるかと緊張を覚えている。
実際、初めて入れ代わりが起きた時の記憶は断片的ながらある。その時は女性だった。次は子供だ。この時も断片的ながら記憶はある。この二つに関しては、自らの意思とは無関係に起きた。その後、一回。これも意思とは無関係だ。更にその後、三回程、人格交代らしきものが起きているが、これは自らの意思によるものだ。恋人と友人が、その人格と話してみたいと告げた為、代わりやすそうな女性に代わって話をして貰った。これらは、自らの意思と無関係に入れ代わった時よりも記憶は鮮明に残っている。
だが、記憶が断片的にしか残っていない日の時のことが、私はとても恐ろしい。何故、自分自身のことだというのに、自分の中で自分が連続していないのだ。もしかしたら私が知らないだけで、私が覚えていないだけで、他にもそういった事象があるのではないか? 疑ったらきりがないことは分かっている。だが、この暗澹たる恐怖をどこへ持って行けばいいのだ。私が私として存在し続ける限り、こういった疑念や恐怖は付いて回る。それとも、いつかそれらがすっきりと、綺麗に霧散する日が来るというのだろうか。果たして、それはいつになるのか? その日まで、私の心は耐えることが出来得るのか?
記憶が比較的鮮やかに残っている人格交代時のことも勿論、恐ろしいことに変わりはない。自らの意識はあるものの、思考が、口が、勝手に動くのだ。私ではない私が恋人や友人と話をしている。何とも奇妙な体験だ。出来るならば一生涯、そのようなものは体験したくなかった。
自らの意思で代わった際に、ああ、これは自作自演とか、思い込みの類ではないのかもしれないと、絶望に似た気持ちで思った。自分のことだ。誰より自分が分かるのではないだろうか。一概にそうとは言い切れないが。つらつらと唇から話を紡ぐ私は、私であって、決して私ではなかった。それならば、あれは一体誰なのだろう。
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結局、前記した土曜日にテストの結果は出ていなかった。いつに出ると明確な返事は貰えなかった。処理が非常に複雑なテストらしい。その事実については知ってはいるが、私は一刻も早く結果が知りたい。もう約一か月前におこなったテストなのだ。好い加減に結果が知りたい。それだけで私の現状、病状、症状を把握することは出来ないというのが医者の言だが、参考になるからこそテストを受けさせたのであろう。どうか結果を参考にして、私の現実を早く教えてほしいと思う。
私自身、人から指摘されることがあるのだが、完璧主義なところがあると。それによってなのか、こうして灰色のままでいることが非常に落ち着かない。詳しくはないが、多重人格や解離が起きているというのならば、はっきり、そうだと言ってほしい。正直、毎日が不安だ。薬のおかげか緩和されてきたとはいえ、相変わらず頭の中で会話は聞こえるし、彼ら人格(と呼んでいいのかは分からないが)の容姿も見える。彼らは一体、何がしたいのだろう。自分自身の身に起きていることとはいえ、その辺りが全く分からないので、不透明な現状に身を置くしかない現実が重たくて仕方ない。
最近では寝付きも悪く、横になってから二時間程は眠れない。非常に疲れる。夏も身を潜め、涼しくなって来たというのに、どうしたことだろう。
人格云々のことも含め、友人に相談してみると、非常に疲れているのではと指摘された。それは私もそう思うのだが、一日に十一時間程の睡眠を摂っているにも関わらず、疲れているのは何故だろう。逆に、それだけ疲れていることの証明なのだろうか。
そもそも、私は近頃、特別に強いストレスは感じていなかった。特別に疲れているとは思っていなかった。そこに、医者からは非常に強い不安と緊張を覚えている状態で刺激に弱くなっていると指摘され、友人からはストレスを蓄積させないよう助言を受けても、あまりピンとは来ないのが正直なところだ。
私には私のことが良く分からない。自宅であろうと暗闇が怖くなってしまったのも、風呂場やお手洗いの扉を開けることが怖くなってしまったことも、夕方から不安や緊張が増すことも、寝付きが悪くなったことも、眠ることが怖いことも、頭の中に私以外の誰かがいる気がすることも、多重人格や解離の可能性を自他共に認めざるを得ない状況になったことも、買い物ですら疲れてしまうことも、好きなことをするにも疲れてしまうことも。全ては八月の末付近に急に陥ったことで、前触れなど一切なかったように少なくとも私は思う。
ストレスによるものかもしれないと指摘されても、前記の通りだ。何がストレスだというのだろう。ただ、医者から言われたのは、楽しいことでも刺激になるので、それがストレスとまではいかなくとも疲労に繋がることはあると言われた。
恋人が出来て、色々と楽しいことが連続して起きて、脳の処理が一時的に追い付いていないのではと友人からは言われた。だとしても、どうしたらいいのだろう。恋人と離れた方がいいのだろうか? それはそれでストレスとなりそうだという予感がある。私には親密な人付き合いは出来ないのかという疑念すら浮かんでしまう。
もう、誰でもいい。何でもいいから、救ってはくれないだろうかと思わず願ってしまう。他力本願は良くないというのが自論だが、さすがに疲弊が強い。楽になりたい。安心して目を閉じて休みたい。人格や解離のことなど全て忘れて、ただ安らかに眠りたい。それくらいには私は疲れてしまっている。甘えていると言われてもいい。大袈裟だと笑われてもいい。ただ、疲れた。休みたい。それだけだ。
次に病院に行くのは約二週間後だが、行って何が変わるのだろう。今度こそ、テスト結果は出ているだろうか。だが、最早、それすらも霞んで見える。私には専門的な話はもうどうでもいい。ただ、ひたすらに休みたいだけなのだ。
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――休みたい。とはいっても、今まで何度もあった「死にたい」という願望とは、それはおそらく懸け離れている。私は死にたいわけではないのだ。ただ、「休みたい」だけだ。しかしながらその方法が分からないので、切迫してしまうと「死にたい」に行き着いてしまうこともまた事実だ。
一体、どうしたらいいのだろう。日記や小説を書き、こういった随筆を書き、友人と会い、友人に相談し、恋人を会話をする。料理がわりと好きなので良く作り、最近はあまり食欲はないものの、大抵、漫画を読みながら食事をする。インターネットを見る。小説を読む。自己暗示や催眠術に興味があるので、それ系統の本を読む。買い物がてら散歩に行く。病院に行く。こうしたことを日々、繰り返し、特に日記や小説や随筆といった「執筆」に関わることは私を大きく支えてくれているので助かってはいるのだが。
また、私の人生は友人に支えられてきたと言っても過言ではない。家族に恵まれなかった代わりに友人に恵まれたのではないかと、そうやって世界はゼロサムのバランスを取っているのではないかとひそかに思ってしまうほど、私は友人に恵まれた。
それから、今年の二月に入ってからは恋人が出来た。恋人と行く場所は、たとえスーパーでも楽しく、道端に咲くマリーゴールドを見るだけでも楽しい。遠距離ゆえにさびしい部分も少なからずあるのだが、ほとんど毎日会話をし、ネットを通じてモンスターハンターというゲームを一緒に遊んでもいる。大体、一ヵ月半に一回くらいの割合で私の家に遊びに来てくれ、約一週間程、滞在してくれる。来年には一緒に住もうという話も出ている。私の性質ゆえか、今現在の情緒不安定ゆえかは分からないが、細かいことを気にしすぎたり、同じことを何度も確かめてしまう為、少し諍いになってしまうこともあるのだが、それでも私達は一緒にいる。私の精神的不安や通院している事実を知っても、支えたいと恋人は言ってくれる。
着る物も食べる物も家もある。身体的病気では喘息と、メニエール病の疑いを持ってはいるが、私はきっとほとんど健康で、恵まれているのだろう。安心して眠れる静かな家にやっと巡り会い、困った時に相談出来る友人と恋人がいるのだ。何を不安がることがあろう。
そもそも、人格交代のような現象が初めて起きた、八月二十六日か二十七日以前は、わりと安定していたのだ。騒音にまみれた以前の家からやっと離れることが出来、眠りたい時に静寂の中で安心して眠れるようになり、友人は変わらず私と接してくれ、恋人が出来た。順調だった。改めて思い返してみても、そう思う。それがどうして一体こうなったのか。
刺激に弱いと医者から指摘されたこと、引っ越しや恋人が出来たことによる生活環境の変化が引き金になっている可能性が高いと言われたことは理解したが、楽しいことですら負荷になるというのなら、今後、私はどうしたらいいのだろう。恋人と会わない方がいいのだろうか。それは極端というものだろうか。また、私は自分が子供っぽい性格であることを自覚している。恋人や友人に指摘もされている。その性格であるがゆえに、思い切り楽しみ、思い切り悲しむことが日常的だ。この性質については嫌いではないが、疲れることも確かだ。
今度、恋人と会った時には動物園や遊園地などに行くつもりだが、そこでも私は思い切り楽しむだろう。特別にどこかに出掛けなくとも、一緒にゲームをしているだけでも今までのように楽しむだろう。そして疲れるだろう。遊べば疲れることは程度の差こそすれあれ、誰も共通のことだろうと思う。だが、私の場合、その楽しさが刺激になって過度に私を疲れさせるというのならば、私は何をどうすればいいのだろう。子供のように楽しむことをセーブし、何事も程良いところで切り上げるようにすればいいのだろうか……私はだんだん、分からなくなってきている。
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初めて、人格交代めいたことが起きた日のことを綴ろう。めいた、と表現するのは、私自身、まだ多重人格の自覚はないし、テスト結果も出ていないし、医者から指摘もされていないからである。
恋人の誕生日である八月の某日の翌日か、翌々日くらいの夜だったと思う。恋人の誕生日を手作りのハンバーグやケーキで無事に祝い、プレゼントも渡し、気が緩んでいたと、あとになって思う。
前記した夜、私は珍しく寝付けなかった。マイスリーという薬を服用しており、それが寝付きを良くするようなのだが、その日はなかなか眠ることが出来なかった。私は確か、恋人と他愛もない話を布団に横になって話していたように思う。おそらく。この時に関することは全て、記憶が曖昧なのだ。
私は突然、恋人を傷付けようと考えたと思う。いや、考えたというよりも、ぱっと浮かんだと言うべきか。そして、浮かんだ以上、それを実行すべきであるという観念に駆られた。水中で生まれた空気の泡が水上に達すれば弾け消えることが当然の事象であるかのように、私はそれを実行すべきだと思ったのだ。
私は恋人に告げた。恋人に初めて話し掛けた時から、絶望に叩き落とすつもりであったと。仲良くして、告白して、互いを想うようになって、誕生日を祝い、プレゼントを渡し。幸せに包まれている時に、絶望に落とし、傷付け、その時の反応を見る為に、今まで傍にいたのだと。
ねえ、今、どんな気持ち? 今まで騙されたと知って、腹立たしい? 悲しい? 苦しい? 全部、嘘だったの。あなたを好きだと言ったのも。一緒にいたのも、この日の為だったの。幸せだったでしょう? 両想いになって、誕生日を祝って貰って、プレゼントを貰って。楽しかったでしょう? 今まで幸せだったでしょう? 全部、この日の為だったの。あなたを絶望に叩き落とす為に一緒にいたの。絶望に落とす為に、誕生日を祝ったの。プレゼントを贈ったの。幸せだったでしょう? ねえ、ねえ、今、どんな気持ちでいるの? 私のこと、許せない? 腹立たしい? 悲しい? つらい? いいんだよ、怒っても。ねえ、悲しい? ねえ、どんな気持ち?
――このようなことを告げたと思う。似たようなことを、似たような言葉を使って、繰り返し、何かを確認するかのように。
私は今まで、恋人に対してこのような態度を取ったことは一度もないし、まして、友人などに対しても、このような言葉遣いを取ったことはおそらくない。別人であった。また、自分で言うのも恐縮だが、私はわざと相手を傷付けようと、陥れようと、時間やお金を使って画策する人間ではない。何かが乗り移っていた――そう表現するのが正しいのかもしれない。
後日、病院にて、某日のことを話した時、乗り移られていると感じたか、操られていると感じたか、どちらであるかを尋ねられた。その時は、どちらも当て嵌まる気がして、はっきり返答することが出来なかったのだが、今なら分かる。乗り移られていたと。それを、私は私の中のどこかで見ていた。喩えるならひどく小さな部屋の中で、非常に薄くなった水のような気配を、意識を持って、「彼女」を見ていたように思う。そして、そんなひどいことを言うのはやめてくれと叫んでいた気がする。この時のことは本当に曖昧な記憶となってしまっているので、記憶の断片から類推するしかないのだが。
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乗り移られている――と仮定する――間、「彼女」は初めて恋人に会ったという旨を告げた。ずっと会いたかった、ずっとこうして話がしたかったと。「私」ばかり恋人と会って話してずるい、と。
恋人は明らかに動揺していた。当然だろう。半年以上もの間、恋人同士として深刻な喧嘩もなく互いを想って過ごして来たというのに、急にその恋人が豹変し、挙げ句、絶望に叩き落とす為に準備をしてきた告げるのだから。
恋人が動揺していたことは私にも分かった。前述の通り、どこか小さな部屋の中で、薄い意識を持ち、私はその光景を見ていた。恋人は目を見開き、「お前は誰だ」と言った。「彼女」は、「あたしはあたしだよ」と言った。その一人称と、話し方、態度、全てに恋人は強い違和感を持ったらしい。
恥ずかしい話だが、私は恋人の前では一人称が自分の下の名前になることがとても多い。あとは、「私」と「あたし」が時々、混じるくらいだ。だから、「彼女」が「あたし」と自らを呼んだところでおかしくはないのだが、恋人は「あたし?」と聞き返した。自分の名前じゃないんだね、と。
その時の私はとにかく別人の如くで、また妖艶であったという。普段の私からは妖艶など、想像も付かない。本人にも想像が付かない自分自身の姿を軽々と見せたのが「彼女」だ。
「彼女」は恋人のことを好きか嫌いか、はっきりとはしなかったそうだ。絶望に落とすなどと言う反面、恋人のことを好いている素振りも見せたという。この辺りは特に良く覚えていない。
しばらく「彼女」は話し続けた。絶望のくだりや、ずっと恋人とこうして話をしたかったこと、「私」ばかり恋人といてずるいということ。恋人からの質問にも答えたらしい。
断片的な記憶の一部として、以下のような発言がある。
――あたしはいつ出て来られるか分からない、せっかく出て来られたのだからあたしと話をしてほしい。
これに対し、恋人は「私」を返せと言った。すると、
――そうやって、あの子ばっかりずるい。あの子よりもあたしの方が力が強くて、もしくは他の子の方が力が強くて、「私」ちゃんなんかもう出て来られないかもしれないよ。
と、「彼女」は返した。私も覚えている。
まるで別人のように振る舞った私、それを多少なりとも自覚しており、しかし、それは私ではないと思っている自分自身、その間の記憶が曖昧であること、第三者が私を見て別人のようだと感じたこと、「私」と「彼女」といった風に私の中で人物像が分かれていること。これらを踏まえると、私は多重人格なのではないかと思った。
後述するが、この後も「彼女」は何度か出て来ており、他にも、表には出て来ていないが、男性が一人と、赤子のような子供のような性別不明の子が一人、私の中にはいる。少なくとも、いると私は思っている。存在を感じるのだ。決してそれは否定出来ない。否定出来るなら、どんなにか楽だろう。
また、以下も後述するが、過呼吸を数度、起こしており、その後、自分の部屋が自分の部屋でないように感じてしまうという現象も体験した。これが解離と呼ばれるものではないだろうか。
インターネットで検索し、本屋で本を立ち読みした程度の知識だが、私にはどうにもそう思えて仕方ないのである。
上記の出来事以降、非常に疲れやすくなってしまい、過度の緊張と不安を日常生活に覚え続けている。いつ頃、解放されるのだろうか?