蛇口
ときこ

小さい時から、人の背中に蛇口が見えた。

それは、僕が小学校に上がるか上がらないかぐらいの頃だったと思う。
その日はとても暑くて、公園で一日中友達と駆け回って遊んだ僕は、夕方、皆が帰ってしまった後、喉が渇いて仕方がなかった。

水が飲みたい。
お腹いっぱい、たぷたぷになるくらい水が飲みたい。

そう思っていると、目の前に蛇口が現れた。
それは、ベンチに腰掛けるおじいさんの背中にニュッと生えていた。


そのおじいさんを僕は知っていた。
よく、赤いリードで繋いだ白い犬を連れてこの公園に散歩に来ていた人だ。犬に触らせてもらったこともある。とてもなつっこい…そう、ゴンという名前だった。
フサフサの毛が、習字の下ろし立ての筆の感触に似ていた。

でも、今日はあの犬がいない。
そして、今日はおじいさんの背中に蛇口がある。

「どうしたの?」と聞く前に、僕はおじいさんの丸い背中から生える蛇口を捻っていた。なんで背中から蛇口が生えているのか、どうして今日はゴンがいないのか。それよりも、僕は自分の喉の乾きに勝てなかった。
キュッ、と心地良い音がして、蛇口からジャーっと水が出た。足元に水飛沫が飛ぶ。
その水に口をつけようと、顔を近づけた時だった。

「ゴン……」

おじいさんの背中が小さく震え、僕はハッとして口を閉じた。
蛇口から、流れ出る水から、おじいさんの声が聞こえる。

「ゴン……、ありがとなぁ…。お前と一緒にいられて楽しかった…ありがとなぁ…」

僕はおじいさんから2・3歩離れた。
おじいさんの背中がどんどん小さくなっていく。それはおじいさんとの距離が遠くなったからじゃない。
おじいさんが穴のあいた水風船みたいに、水を吐き出して、ゆっくりとしぼんでいく。

「春は桜が綺麗だったなぁ…。お前はボール遊びが好きだったなぁ…。あの頃は、ばあさんも元気だったなぁ…」

おじいさんの手には赤いリードが握られていた。なんだかそれがすごく切なくって、僕は「あぁ、ゴンはもういないんだ」となんとなくわかった。

「ありがとなぁ…、ありがとなぁ…。また会おうなぁ」

いつのまにか蛇口の水は止まっていて、僕があっ!と僕が叫んだ途端、おじいさんは消えた。
ベンチと、その下の地面に大きな水たまりを残して。


その後、僕はそれはもう大パニックだった。
喉の乾きも忘れて家まで走り、蛇口の事、ゴンの事、おじいさんの事を両親に泣きながら話した。
蛇口を捻ったのは僕で、そのせいでおじいさんは消えてしまった。

「おじいさんが消えちゃった!おじいさんが消えちゃった!僕、おじいさんを殺しちゃったぁ…!」

両親は僕のあまりの泣きっぷりに完全に動揺し、ご近所中に電話を掛けて白い犬を飼っていたおじいさんを探した。僕はというと、大好きなハンバーグも食べず一晩中泣き続け、いつの間にか眠っていた。
自分のしてしまった事に押しつぶされてしまいそうだった。


しかし、おじいさんは消えていなかったし、ましてや死んでもいなかった。
次の日、僕は父に連れられてその公園に向かった。現場検証みたいなものだ。
すると、昨日消えたはずのおじいさんが、公園の入り口からひょっこり顔を出した。
僕は2度目のパニックに陥った。


おじいさんは、蛇口の水が言った通り、おばあさんとゴンと一緒に仲良く暮らしていた。しかし、病気でおばあさんを亡くし、ゴンも昨日寿命でとうとう死んでしまったのだという。

「昨日は本当に消えてしまいたいくらい悲しかったよ。でも、この思い出の公園でゆっくり二人との思い出に浸っていたら、なんだかすーっと悲しみが消えて心が軽くなったんだ。今は此処から少し離れた息子夫婦の所にやっかいになっているよ」

そう言って、おじいさんは微笑んだ。



あの事件からもう十数年。今も蛇口は見え続けている。
小学生からお年寄り、人種も性別も関係なく。
すれ違う人全員に蛇口があるわけではない。ある人がいればない人もいる。
そして僕はと言えば、なんとなく気まぐれに蛇口をひねってしまうこともあったし、気になっても触らないこともあった。

でも、どの人も蛇口を捻れば水が出て、しぼんでいって、最後には消えた。




「ただいま」

「おかえりなさい」

就職し、家を出て、僕は優子という彼女と同棲生活を始めた。
優子とは大学時代の合コンで知り合い、何度もデートを重ね、今にいたる。きっとこれからもずっと隣にいてくれるのだろう。名前の通り、とても優しい子だった。

でも、僕はその優しさに甘えている所があった。
言い訳になってしまうが、最近仕事が忙しかった。家に帰るのは遅く、休みの日も寝てばかり。学生時代と同じように二人で外に出る機会は減り、恋人らしい事も少なくなった。
申し訳ないとは思う。でも、思うだけでどうにもしないでいる。
美味しいご飯を「おいいしいよ、いつもありがとう」と言えないまま、僕はその日も蒲団にもぐりこんだ。彼女も黙って僕の隣に寝そべった。

目覚まし時計の秒針の音が大きく聞こえるほどの静けさの中目を閉じた時、なにかゴリゴリとしたものが僕の背中に当たった。
振り向いて見てみると、彼女の背中にそれまで見えなかった蛇口があった。

蛇口だ、と思った。

上半身を起こし、僕は彼女の蛇口をゆっくりと捻った。
今までの誰もと同じようにジャーっと水が流れだし、蒲団が濡れていく。でも、蒲団がいくら濡れても僕はその水から目が離せなかった。


「寂しい」


彼女の体から流れる水が言った。


「寂しいよ。
寂しいよ。
でも言えない。仕事頑張ってるアナタにそんなこと言えない。昔みたいに手を繋いで歩きたいよ。今日のハンバーグ、ちゃんと美味しかった?お風呂は熱すぎなかった?一緒に夜の海に行こうよ。ねぇ、今日はどんなことがあったの?聞いていいの?雨の日は相合傘しようよ。ねぇ、私の事好き?
ねぇ、昔みたいに、もっと私のほうを向いて、」


僕は急いで蛇口を閉めた。しかし水は止まらない。
今までとは違い、彼女の蛇口は壊れてしまったように水を吐き出し続ける。


ねぇ、私はあなたの事、今も、これからも大好きだよ。


僕は彼女を力いっぱい抱きしめた。
パジャマも、蒲団も、僕の顔も、部屋中の物が濡れてびしょびしょになり、やがて部屋は彼女の水でいっぱいになった。彼女の体をいつまでも抱きしめながら、僕はあたたかい水の中、「ごめん」と呟いてゆっくりと目を閉じた。


僕の言葉は彼女から溢れる水の中、まぁるくなってゆっくりと天井に登っていき、蛍光灯にぶつかって消えた。




おわり



散文(批評随筆小説等) 蛇口 Copyright ときこ 2011-08-31 14:30:22
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