待子さん
salco

 そろそろ塾から帰る時間だ。
 慌ててエプロンを外し、玄関を出る。外は真っ暗だ。ついこの間まで湯
の中を泳ぐような暑気に買物も億劫だったのに、もう星光のような風がそ
よめいている。
 勤め人の帰路を真千子は遡上する。
 今晩のメニューは大好物のハンバーグにスペインオムレツ、人参のグラ
ッセ、ブロッコリーとトマトのサラダ、オニオンスープ。
 巨峰も冷やしてある。食器もセット済だ。何しろ純一は、あー腹減った
腹減ったと帰って来る。眠くなるんだから、我慢して先にお風呂入っちゃ
いなさい。
「ムリ! 頭使ったから先に食べないと、風呂で昏睡状態に陥るね」
 五年生のくせに生意気な口をきく。しょうがない子ねえ、早くかばん置
いて手を洗っておいで。
 ご飯は芳しい湯気を立てて輝いている。茶碗の中で冷え、こわばり、黄
変し、腐り、緑変し、溶け、黒く干乾びて底にこびりついている。 



 この辺りでその女を見かけるようになって もう三、四年になろうか。
もっと前からいたかも知れないが、行き会わなかったか目に留まらなかっ
たのだろう。この団地に引越して六年目に入るけど、帰宅が遅い夫は見た
ことがないと言う。
 出没するのは夜更けもあれば夕まぐれの時もある。身綺麗な普段着で、
白髪混じりの頭を大抵はひっつめにしている。雛人形めいた微笑を浮かべ、
小声で唄うように何か呟いているのに気づかなければ、至極まともに見え
る。実際、すれ違っても気づかぬ様子の人は多い。でも、財布も持たず夜
を出歩くその小柄なシルエットは、用件を懐中にした人の歩調ではない。
 真っ暗な横道からぬっと現われることもあり、あのマンションの前に佇
んでいたり、駅前のスーパーから手ぶらで出て来ることもある。

 その目は誰をも見ていないので、一度私は反対側の歩道からめつけた
ことがある。ところが女は視線を捉えて車道を渡り、両手を伸べながら向
かって来た。するすると迫って来た白い顔の、切れ長の目は真っ黒で、笑
う唇が歯のない老婆のように口蓋へ折り込まれて見えた。咄嗟に身をかわ
し反対側へ逃がれて早足のまま振り返れば、見通しの良い緩やかなカーブ
の先にも姿がない。
 俄かに怖くなった私はそれから帰宅の途が気鬱になり、賑やかな駅前を
逸れて我が家へ至る、通行人を支脈に篩い分けて行く道路の先々へ目を凝
らすようになった。駅前に駐輪場がないので一時期はバスも利用したが、
バス停からの暗い裏道に一層の恐怖が募るのだ。

「それって幽霊だよ。季節もいいし」 
 奥歯にアマルガムをぎゅうぎゅう詰めながら福田先生が言うものだか
ら、余計に恐ろしくなった。
「わはか」
 起き直って口をゆすぐのももどかしく、
「だって冬も夕方も出るのよ? 足だってちゃんとあるし。煌々としたス
ーパーの中をうろついてる時だってあるんだから」
「いやさ、このビルにも出るんだって。けっこう有名なのよここ。一階の
眼鏡店さんなんかそれで出て行っちゃったんだから。朝、店員の男の子が
一人で店開けるだろ? 誰もいない奥の方からさあ、女の声がするんだっ
てよ!」
「やらー。へんへーハ、ひはほほはんほ?」
「俺はないけどさあ。でも何か不気味だよ、治療が長引いて遅くなった時
なんか」
 お蔭でその夏は歯医者通いのホラーが重なった。
 職場の同僚もいやあねえ、と顔を曇らせてくれはするものの、この町で
帰宅に無用な緊張を強いられているわけではない。遥か前方を行くサラリ
ーマンがガードレールを跨いで斜め横断をする。あ、出たなと私も倣う。
いい年をしたおじさんでさえ怖いのだと思えば、御同慶の至りと苦笑の余
裕はない。
 いつしか右側の歩道を帰る人がめっきり減ったように思う。夜道には部
活や塾帰りの子供達だっている。やっと苦情が出始めたのか、最近になっ
てパトカーが青い回転灯を閃かせながら巡回するようになった。



 母親が変調を来したのは、思えば純一が高校に入った頃かも知れない。
どことなく元気がなく、夕食後に片付けの手を止めてぼんやり座っている
のを見かけた気もする。出版社に勤める父親は帰宅が遅く、もともと一日
の疲れを浮かべた妻しか見たことがない。息子は尚さら関心がない。
 次第に塞ぎ込むようになり、カーテンも引かずテレビもつけず、真っ暗
な居間のソファでうつけている。帰宅した純一が点灯し、声をかけると初
めて訝しげな顔を振り向けて、「あら、お帰り」とうっすら笑む。
「メシは?」
「ああ、今」
 そんな風に、サラダにゆで玉子を切らずに載せる。刺身に味噌汁が付か
ない。夏期講習の費用を失念する。或る晩は秋刀魚を焦がし、米に芯が残
っていた。
「何だよ、こんなの食えないよ」
「ああ、ごめん」
「ふざけんなボケ」
 テーブルに箸を叩きつけてふて寝してみたものの、腹が鳴るので下に降
り、まだ動揺している母親にカップラーメンを出させて自室で食べた。

 いつしか炊き加減が毎日のように変わり、冷凍食品やレトルトものばか
り出すようになった。それでおどおどしているのが、よけい気に障る。
「手抜きすんなよ。一日何やってんの?」
「ママね、頭が痛くて」
「言い訳すんなヒマなくせによ。家にいる意味ねえだろ? 死ねば?」
 ひどい事を言った。刺されたように立ちすくんでいる。引っ込みがつか
ず、憤懣を装って宅配寿司のメニューを命じた。

 生米を茶碗に盛った時には、目つきがおかしくなっていた。父親が病院
に連れて行くと、脳室の拡大を告げられた。投薬治療が始まったが、薬の
管理もままならない。言動が認知の消失を手探りで彷徨う繰り返しの内に
海馬の委縮も進行し、やがて見えない世界の住人となり、見えない人間だ
けを相手に暮らすようになった。
 父親は出世を放棄し、純一も入ったばかりの大学を休学した。家の中は
弁当がらと汚れ物で荒み、二人に安逸はない。譫妄が激しくなると暴れ出
し、薬の効いた鈍い体で彷徨い出てしまうので、夜も目が離せない。

 それでもたまに、母の内側へ現が届く時がある。息子や夫に「ママ」と
呼ばれて、ふいに顔を上げることがある。真千子にとってそれは、前触れ
もなくドアを蹴破る闖入者の来訪に他ならなかった。 
 見知らぬ男達が上がり込み、大声を出している。何かを持たせ何かを奪
い取る。絵を描いている息子を踏みつけてソファに座り、恐竜達の呼吸を
レジ袋の白で塞ぐ。黄緑やピンクのクレヨンがばらばらと床に飛び散る。
 ちょっとあなた、何でそんなことするの? 誰なのあなた。出て行って
ちょうだい。純くん純くん、そこに隠れていなさい。今帰ってもらうか
ら。パパに電話するから。主人を呼びますよ? 一一〇番します! 何を
するの、ひと殺し、ひと殺し! 

 こんなことが続くと、純一は怯えて塾から帰って来られない。だから駅
まで迎えに行く。新しく出来た西口や、閑散とした南口へは決して回らな
い。あの子はこの北口から出て来る。光の加減でわかるのだ。
 なのに家へ連れ帰る途中で、どこかに隠れてしまう時がある。だからそ
こらを探して歩き、人にも尋ねて廻る。
 ああ、見ましたよ。お宅のお坊ちゃんね? 純くんでしょ? あっち。
 あっち。
  そっちだよ。
   ママ、こっちだよ。
 帰宅後も、気がつくといなくなったりする。また探しに出る。
  
 

 長らく更地だった区画に低層マンションが建った。立地が良いので外壁
工事前に完売したらしい。この瀟洒な建物に移って来た住民は、現場保存
の規制線もブルーシートも知らない筈だ。
 競売を落とした業者が解体を入れると、古家の床下から人骨が出た。

「だってあなた。ご主人が亡くなった後は息子さんが面倒看ていらしたけ
ど、やっと入所できたって話だったわよ? まさかねえ!」
「これだけの土地だもの、ご主人だって切り崩して相続税払ったのよ。ご
長男だって行方くらますよりもねえ、半分でも手放せばさ、結構なうわ物
建てて、お釣りで暮らせるのにって、私ずうーっと不思議だったの。それ
がさあ」 
 それが八年前である。肋骨には切創痕があった。盛岡のパチンコ店に潜
伏していた純一は服役している。不利な証拠は挙がらなかったが、小柄で
非力な母親に対する正当防衛は、当然認められるものではなかった。小さ
な記事だったから近在の住民しか憶えていないだろう。


散文(批評随筆小説等) 待子さん Copyright salco 2011-08-06 00:27:59
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